伝記
シャルルは、ヴァロワ=ブルゴーニュ家の事実上最後のブルゴーニュ公で、在位は1467年から1477年である。シャルル・ル・テメレールと呼ばれ、日本語では突進公、猪突公、無謀公などと訳されるが、フランス語の語感としては「無謀な君主」という侮蔑的な意味合いが強い。1433年11月にディジョンで、フィリップ3世(善良公)と、ポルトガル王ジョアン1世の娘イザベルの三男として生まれた。兄2人が幼くして亡くなったため、ただ一人の男子となり、嫡子に与えられるシャロレ伯の称号を受けた。生後3週間で父から金羊毛騎士団の騎士に叙され、ブルゴーニュ公国の北部にあたるネーデルラントで育った。19歳だった1452年には、ヘントの反乱をフランドルで力ずくで抑え込んでいる。
3度結婚した。最初の妻はフランス王シャルル7世の娘カトリーヌで、1440年に結婚したが子のないまま若くして死去した。2番目の妻は従妹のイザベルで、1454年に結婚し、1457年にただ一人の子マリーを産んで若くして亡くなった。1467年に父が没して公位を継ぎ、翌1468年にイングランド王エドワード4世の妹マーガレットを3番目の妻とした。子はなく、夫との死別後もマリーと、その夫マクシミリアンを助けて公国のために尽くした。
フランス王国の統一を進めるルイ11世に対抗する国内最大の君公として、ブルゴーニュ伯領のほかリエージュ司教領の支配権を得て、ネーデルラントを支配した。豪奢な宮廷生活を営みつつ、貴族を連合させてルイ11世に対抗する同盟を結び、3度戦っていずれもフランス王軍を圧倒した。1473年には周囲のロレーヌやピカルディを攻略し、要塞を引き渡させて自由通行を認めさせた。シャルルは、歴代のブルゴーニュ公が追求した反フランスの姿勢と、マース川とモーゼル川の間の全領域を手に入れるという目的を受け継ぎ、スペインやナポリのトラスタマラ家と同盟した。野心はハプスブルク家を乗っ取り、神聖ローマ皇帝となることだったと言われる。皇帝フリードリヒ3世と嫡男マクシミリアンを豪華な宴席に招き、マリーとの縁談とローマ王への推挙を持ちかけたが、皇帝は息子とともに返答を避けて去り、以後その人生は衰運へ傾いた。
領土の統一と拡大にはフランス王を倒す必要があると考え、当時最高の兵を集めた。イタリア傭兵から重装騎兵と弩兵、手銃兵を、イングランドから騎乗長弓兵を、フランドルの家臣から槍兵を集め、諸兵科を組み合わせて互いに支援できるよう編成し、効果的な野戦砲の開発も支えた。兵は赤い聖アンデレの十字をつけた青と白の制服をまとい、1471年からは軍の配置を定めた勅令が毎年出されている。だが、長大なパイクで武装した1万から2万人のスイス傭兵の大隊列に対抗できるほどの槍兵は持たず、それが致命的な弱点となった。1476年、フランス王に雇われたスイス傭兵にグランソンなどで敗れ、1477年1月5日、ロレーヌ公ルネ2世と対峙したナンシーの戦いで、スイスのハルバード兵に頭部を斬られて戦死した。落馬した遺体は3日後に発見された。男子のなかったシャルルの一人娘マリーがマクシミリアンと結婚し、ネーデルラントはハプスブルク家領となった。公国はその死とともに崩壊したが、彼の名を受け継いだ曾孫カール5世によって、神聖ローマ皇帝という野心は実現することになった。現実的な計算よりも情熱と使命感のままに破滅へ突き進んだその生涯は、年代記作家に記憶され、ホイジンガも『中世の秋』などで繰り返し言及している。
同じ年に亡くなった人物
- ジャン8世 (ヴァンドーム伯) (1477年没)
- Gregory of Sanok (1477年)
- ジャック・ダルマニャック (ヌムール公) (1477年没)
- アドルフ・ファン・エフモント (1477年没)
- フランチェスコ・デル・コッサ (1477年)
同じ地域に関係する人物
- アンリ2世 (ロレーヌ公) (1624年没)
- ゾフィア (バル女伯) (1093年没)
- ロジェ・ピアントニ (2018年没)
- アンリ・ブラコノー (1855年没)
- ユベール・リョテ (1934年没)