伝記
アリス・オブ・バッテンバーグは、1885年2月25日、ウィンザー城で生まれた。ギリシャ王子アンドレアスの妃で、イギリス王配フィリップの母にあたる。初代ミルフォード=ヘイヴン侯爵ルイス・アレグザンダー・マウントバッテンと、その妻でヘッセン大公女のヴィクトリアの長女である。生まれた当時、父はドイツ姓バッテンベルクの英語読みを名乗っていたが、アリスの結婚後の1917年に、イギリスの国民感情を考えて、より英語的な「マウントバッテン」に改姓した。ダルムシュタットやマルタ、ロンドンで育った。幼い頃は言葉を発するのが遅く、発音も不明瞭だったため、母が耳鼻科の専門医に診せたところ、遺伝による先天性の難聴と診断された。母の励ましと本人の努力で読唇術を身につけ、英語とドイツ語を話し、理解できるようになった。
1902年、大伯父エドワード7世の戴冠式でギリシャ王子アンドレアスと出会い、たちまち恋に落ちた。1903年10月にダルムシュタットで結婚し、ギリシャの王家の一員となった。結婚後、アンドレアスは軍人としての任務を続け、アリスは慈善活動に没頭した。1908年にロシアを訪れた際には、叔母エリザヴェータに会い、信仰厚い看護婦たちを集めた修道会を設立したいという案に深く感化された。バルカン戦争では、アンドレアスが軍人として出征し、アリスは野戦病院で看護婦として働き、のちジョージ5世から王立赤十字勲章を授けられた。1916年12月、フランス軍の爆撃を受けたアテネで、アリスと子どもたちは宮殿の地下壕にこもった。やがて王は退位し、王家はスイスで亡命生活を送った。1920年に一家はギリシャへ戻ったが、希土戦争で王は再び退位して亡命し、アンドレアスは捕らえられた。一家はイギリスの圧力で救出され、軍艦で脱出した。
パリ郊外の借家で暮らしながら、ギリシャ難民のための店を手伝った。深い信仰心を持つようになり、1928年にギリシャ正教に改宗した。1930年ごろから統合失調症を患い、ベルリンのサナトリウムに入り、のちスイスのサナトリウムに移された。娘たちは1930年から1931年にかけてドイツ貴族と結婚したが、アリスは結婚式に出席しなかった。唯一の息子フィリップは、イギリスで母方の親族によって育てられていた。1937年には飛行機事故で三女セシリアの一家を失った。1938年に退院し、一人でアテネに戻って、貧しい人々を援助する活動を始めた。
第二次世界大戦では、娘たちの夫がドイツ側に立ち、息子がイギリス海軍士官だったため、極めて難しい立場に置かれた。ギリシャ王家の大半が南アフリカへ逃れたなか、義姉エレナとともにアテネに残った。赤十字社で働き、炊き出しをし、孤児や浮浪児のための避難所を二つ組織した。1943年にドイツ軍がアテネを占領すると、ユダヤ系の未亡人ラケル・コーエンと二人の息子をゲシュタポからかくまった。この人道的な行為は、戦後イスラエル政府により「諸国民の中の正義の人」に列せられて讃えられた。夫アンドレアスはモンテカルロのホテルで死去し、二人は1939年以来会っていなかった。
1947年に息子フィリップとエリザベス王女の結婚式に出席し、1949年からは正教会の修道女として、看護をする修道女の組織を設立した。1953年のエリザベス2世の戴冠式には、修道女の装いで出席した。1967年に軍事クーデターが起こると、息子夫婦の住むバッキンガム宮殿に移り住み、1969年12月5日、そこで亡くなった。エルサレムのオリーブ山の麓の教会に葬られたいという遺言は、1988年に実現した。
同じ年に亡くなった人物
- エンリケ・バレステロス (1969年没)
- ウォーレン・マカロック (1969年没)
- リー・ハーライン (1969年没)
- フレッド・アレクサンダー (1969年没)
- カルロス・マリゲーラ (1969年没)
同じ地域に関係する人物
- ヘンリー・ブルース (初代アバーデア男爵) (1895年没)
- ジェームズ・ハリントン (1677年没)
- モーリス・ビンダー (1991年没)
- グンナー・ニルソン (1978年没)
- Henry Worsley (2016年没)