伝記
ボリス・カーロフは、本名をウィリアム・ヘンリー・プラットといい、1887年11月23日にロンドン南部のイースト・ダリッジで生まれ、主にアメリカで活躍した俳優である。父エドワード・ジョンはインド高等文官で塩の専売収入を扱う部署に勤め、母はエライザ・サラ・ミラードといった。両親は彼が幼いうちに亡くなり、九人きょうだいの末っ子だった彼は、異母姉や年長の兄姉に育てられた。兄の一人ジョン・トマスは、のちに中国駐在の英国総領事となった。父はイギリス人とインド人の母をもつ人物で、カーロフもインド系の血を四分の一以上引き、同年代の者たちよりも浅黒い肌をしていたという。少年のころはがに股で、舌足らずでもあり、吃音に悩んだ。吃音の抑え方は身につけたが、舌足らずは映画界に入ってからも目立った。エンフィールドのグラマー・スクールのあとアッピンガム校などで教育を受け、ロンドンのキングズ・カレッジで領事部門に進む勉強をしたが、1909年に卒業せずに大学を離れ、船でカナダへ渡った。
カナダでは農場労働者やトラックの運転手など、さまざまな仕事をして各地を転々とし、サスカチュワン州のプリンスアルバートで偶然舞台に立ったことが、のちの映画での経歴につながった。1911年ごろから劇団の舞台に出るようになり、1912年6月にレジーナを襲った竜巻の日には、その町に滞在していた。芸名のボリス・カーロフを選んだのもこのころで、ボリスの名は外国風で異国的に響くからで、カーロフは家名だと語っていたが、娘のサラはスラヴ系の祖先に心当たりはないと述べている。芸名には、俳優になった自分が兄たちの恥にならないようにする狙いもあったとされる。兄たちが俳優になった彼を本当に一家の面汚しとみていたかは別として、本人はそう思われることを恐れ、1933年に『月光石』の撮影で英国に戻るまで再会しなかった。再会すると兄たちは彼の周りで宣伝用の写真に喜んで収まったという。
1919年に映画界に入り、サイレント映画の時代を脇役として多くの作品に出て過ごした。堅実な演技が次第に認められ、1930年ごろには個性派俳優として好評価を得ていた。1931年、ユニバーサル映画の『フランケンシュタイン』でモンスター役に起用された。この役は『魔人ドラキュラ』で怪奇スターとなったベラ・ルゴシに配役される予定だったが、ルゴシが台詞のない怪物役を拒んだので、カーロフが代役に指名された。この映画は世界的にヒットして、ホラー映画史上不朽の名作となり、重いメイクの奥から怪物の恐怖と人造人間の哀感を表現したカーロフも、世界に知られる怪奇スターとなった。翌1932年にはミイラ映画の元祖『ミイラ再生』で、人間の姿で復活した古代の高僧を貫禄豊かに演じ、素顔で台詞をしゃべっても演技力と存在感が十分であることを示した。1934年の『黒猫』でルゴシと共演したが、序列はカーロフのほうが上だった。1935年の『フランケンシュタインの花嫁』と1939年の『フランケンシュタインの復活』でもモンスターを演じ、この3作でその役を降りた。1940年代前半はブロードウェーの大ヒット舞台劇『毒薬と老嬢』に出演した。第二次世界大戦後も、アメリカだけでなくヨーロッパやメキシコの映画にも出演し、晩年まで俳優活動を続けた。1968年には、ピーター・ボグダノヴィッチの監督デビュー作『殺人者はライフルを持っている!』で、自身を投影したかのような往年の怪奇俳優の役を演じた。1969年2月2日、英国サセックス州ミッドハーストの病院で亡くなった。
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