HISTORICAL PERSON · 1969年没

コルネイ・チュコフスキー

ロシアの詩人・児童文学者・文芸評論家。童話『ワニ』が好評を得て、アイボリット先生の生みの親として名高い。評論集『ホイットマン』も著した。

生涯
1969年没
死亡地
ロシア連邦(モスクワ)
出生地
ロシア連邦(サンクトペテルブルク)
出典
世界地図
ロシア連邦(モスクワ)

伝記

コルネイ・イヴァノヴィッチ・チュコフスキーは、新暦で1882年3月31日にサンクトペテルブルクに生まれた詩人・評論家・翻訳家で、児童文学のアイボリット先生の生みの親としても名高い。出生名はニコライ・ヴァシリエヴィッチ・コルネイチューコフという。母エカテリーナは、裕福なユダヤ系ロシア人の家の男性エマヌイル・レヴェンソンとの間に彼を産んだが、レヴェンソンの家が結婚を許さず、二人は別れた。母は二人の子ニコライと妹のマルーシャを連れてオデッサへ移り、レヴェンソンはしばらく経済的に支えた。オデッサのギムナジウムでは、のちの政治家ウラジーミル・ジャボチンスキーが同級生だったが、「低い出自」を理由に、つまり庶子であることを理由に放校された。そのため、中等学校と大学の卒業資格は通信教育で得なければならなかった。

1901年にオデッサの新聞のジャーナリストとして働いているときに、姓を改めて、コルネイ・チュコフスキーと名乗った。文筆活動もこの年に始めている。独学で英語を身につけ、1903年から1905年まで、オデッサの新聞のロンドン特派員を務めたが、議会の記者席よりも大英図書館で過ごす時間のほうが長かった。独学の英語は発音が独特で、イギリスでは通じにくかったという。帰国後は英語の作品を翻訳し、同時代のヨーロッパの作家についての評論を発表して、ロシア文学界の主要な人物と知り合い、アレクサンドル・ブロークと親交を結んだ。1905年からは反政府の風刺雑誌『信号』の編集に加わったが、「王家への侮辱」の罪で逮捕され、六か月の拘置ののち無罪となった。1908年には評論『チェーホフから現代まで』を、1914年には『ホイットマン』などの評論集を著した。

そのころ、子供のための最初の幻想的な作品も生まれた。1916年から童話詩『ワニ』を著して好評を得たが、その中の少女は、長年の友人で出版人のジノヴィイ・グルジェビンの娘リャーリャに着想を得たものである。軽やかな韻律と茶目っ気のある物語は、革命前の児童詩の生真面目さを一掃したと評された。のち演劇やアニメ映画に翻案され、プロコフィエフらによってオペラやバレエにもなっている。子供の言葉を観察した風変わりな著作『2歳から5歳まで』も著した。また1925年から1929年、1936年、1942年にかけて、ヒュー・ロフティングの『ドリトル先生』の主人公をもとに翻案した『アイボリット先生』を生み出した。1934年には、ソビエト作家同盟の第1回会議に参加した。

ソビエト時代には、ネクラーソフの全集を編集し、戦後には『ネクラーソフの手法』を1953年に著した。チェーホフやドストエフスキーなど十九世紀の作家の伝記や作品も研究した。翻訳家として、シェイクスピアやキップリング、ホイットマン、マーク・トウェインなどの作品を訳し、翻訳論も多く書いた。1919年にはニコライ・グミリョフと共著で、小冊子『芸術的翻訳の原則』を出し、これをのちに何度も書き直し、拡充している。幼児向けの作品は、ナジェージダ・クルプスカヤらから激しい批判を受けた時期もあった。日記によれば、その名声を利用してアフマートヴァやゾシチェンコ、ソルジェニーツィンら体制に迫害された作家を助け、ボリス・パステルナークのノーベル賞受賞を公式に祝福した唯一のソビエト作家でもあった。1962年にはレーニン賞を受け、オックスフォード大学から名誉学位を授与された。1966年にはアイボリット先生が映画化された。1969年10月28日、モスクワで死去した。

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