HISTORICAL PERSON · 1969年没

ザーキル・フセイン

インドの教育者・政治家で、第3代大統領。ガンジーの側近でビハール州知事や副大統領を務めた。在任中の1969年に心臓発作で亡くなった。

生涯
1969年没
死亡地
インド(デリー / ニューデリー)
出生地
インド(ハイデラバード)
出典
世界地図
インド(デリー)

伝記

ザーキル・フセインは、1897年2月8日にインド中南部のハイデラバードで生まれた教育者、政治家で、1967年から1969年まで第3代インド大統領を務めた。アフリディ族のパシュトゥーン人の家系の出で、先祖は現在のウッタル・プラデーシュ州の町に定住していた。父は南部デカンに移って法律家として成功し、1892年にハイデラバードに居を構えた。ザーキルは7人兄弟の3番目で、コーランやペルシア語、ウルドゥー語を家庭で教わり、初等教育は地元の学校で受けたと考えられている。1907年に父が亡くなると、一家は町に戻り、彼は中学校に通った。1911年には、疫病の流行で母や親族の何人かを失った。

1913年に大学入学資格を得て、アリーガルのムハンマダン・アングロ・オリエンタル大学に入った。のちに医学の学位を目指してラクナウのキリスト教系大学に移ったが、病気で学業を中断し、翌年アリーガルの大学に戻った。1918年に哲学と英文学、経済学を修めて卒業し、学生会の副会長に選ばれ、弁論でも賞を得た。大学院では法律と経済学を学び、1920年に修士号を得て、大学の講師になった。その後ドイツに渡ってベルリン大学で学び、経済学の博士号を取得した。在学中の1915年には、シャージャハーン・ベーガムと結婚して、二人の娘をもうけている。娘たちの一人の息子は、2012年に外務大臣になった。

1920年、ガンディーがこの大学を訪れ、イギリスへの非協力を呼びかけた。それに応えて、学生や教員の一部が非協力運動に加わり、植民地の影響を受けない教育を目指す民族大学を設立した。これがのちのジャミア・ミリア・イスラミアで、1925年にアリーガルからデリーに移った。フセインはその創設者の一人であり、ガンディーの側近でもあった。1926年から1948年まで学長を務めた。1937年には、基礎国民教育委員会の議長として、母語による無償の義務教育を重んじる新しい教育方針をまとめた。イスラム教徒のための分離選挙に反対し、1946年には、国民会議派が彼を暫定政府に入れようとしたが、ジンナー率いるムスリム連盟が拒否した。

インドの分離独立の後も、彼はインドにとどまり、1948年にアリーガル・ムスリム大学の学長に任命され、同大学が国の高等教育機関であり続けるのを助けた。教育への貢献により、1954年にパドマ・ヴィブーシャン勲章を受け、1952年から1957年まで国会議員に指名された。1957年から1962年までビハール州の知事を務め、1962年にインド副大統領に選出された。翌年にはバーラト・ラトナ勲章を授与された。1967年には、ラーダークリシュナンの後を継いで大統領に選ばれ、インドの最高の憲法上の地位に就いた初のイスラム教徒となった。ウルドゥー語の著作や翻訳のほか、多くの児童書も著した。1969年4月26日、アッサム州の視察からデリーへ戻った後に体調を崩し、5月3日に心臓発作で死去した。在職中に亡くなった初の大統領であり、在職期間は最も短い。墓はジャミア・ミリア・イスラミアの敷地にある。彼の名は切手や、各地の教育機関、図書館、道路、アジア最大のバラ園などにも冠されている。

同じ年に亡くなった人物

同じ地域に関係する人物