伝記
アテナイのアリスティデスは、2世紀のキリスト教徒のギリシア人著述家で、『アリスティデスの弁明』の著者として知られる。聖アリスティデスやマルキアヌス・アリスティデスとも呼ばれ、祝日はカトリック教会で8月31日、東方正教会で9月13日である。没年は134年とされるが、後述のとおり確定してはいない。
生涯についてはほとんど分かっていない。4世紀に書かれたカイサレイアのエウセビオスと聖ヒエロニムスの記述が、数少ない手がかりである。それによれば、アリスティデスは住んでいたアテナイで、キリスト教に改宗する前も後も哲学を実践していた。エウセビオスは『教会史』で、アリスティデスは我らの宗教の忠実な弟子であり、ハドリアヌス帝にあてた信仰の弁明を残したと記している。エウセビオスとヒエロニムスは、この弁明がクァドラトゥスの弁明と同じ時に皇帝に提出されたとも述べる。ここから、ハドリアヌス帝の治世である117年から138年のうちに弁明が行われたと考えられ、アリスティデスは133年から134年のあいだに没したとする説の裏付けともなっている。アルメニア語版の文面もこれを支持する。
ただし、シリア語版の二つ目の標題には、弁明が140年にアントニヌス・ピウス帝へ捧げられたとあり、これだけが異なる。もしアリスティデス本人が提出したという意味なら、133年から134年の没年説は成り立たない。エウセビオスは、ハドリアヌスの養子で後継者となったアントニヌス・ピウスも「ハドリアヌス」の名を名乗っていたことに惑わされたのではないか、ヒエロニムスは弁明を読まずにその誤りを写したのではないか、という見方も出されている。しかしヒエロニムスは、弁明が自分の時代にも現存していたと述べ、内容も紹介している。エウセビオスとヒエロニムスの証言、アルメニア語版の本文はいずれも、ハドリアヌス帝に提出されたとする方向に傾き、時期はおそらく124年から125年ごろとされる。
この弁明は、現代まで保存された最古のキリスト教の弁明書である。それより古いクァドラトゥスの弁明は断片しか残っていないためだ。1878年、ヴェネツィアのサン・ラッザロのメヒタル会が、10世紀の写本から『ハドリアヌス帝への、アテナイの哲学者アリスティデスより』と題するアルメニア語の断片を刊行した。大半の学者はこれを失われた弁明と認めたが、エルネスト・ルナンなど真偽を疑う者もいた。1889年、イギリスの学者レンデル・ハリスがシナイ山の聖カタリナ修道院でシリア語訳の完全な本文を見つけ、断片の真正性が確かめられた。J・A・ロビンソンは、この弁明の内容が7世紀以来、宗教書『バルラームとヨサファト』に組み込まれて伝わっていたことも示した。1922年には、ギリシア語原文の二つの部分を含むパピルスの断片が大英博物館から刊行された。
1889年のシリア語訳の弁明は、著者が名前と出身地を述べ、アントニヌス・ピウス帝にあてたと記すところから始まる。第1章では、世界が存在するゆえに神が存在し、神は永遠で不変、完全であると述べる。第2章では、世界の民を蛮族、ギリシア人、ユダヤ人、キリスト教徒の4種に分け、第3章から第16章で、それぞれの宗教の実践を述べる。蛮族は死んだ戦士や自然の要素を拝み、真の神を知らないとされる。ギリシア人は蛮族より賢いが、作られた多くの神々を導入して蛮族以上に誤ったとされ、その神々には姦通や殺人を犯す者までいたと批判される。ユダヤ人については簡潔に触れ、創造主である神を拝む点は評価しつつ、天使に仕えているとして道を踏み外したと述べる。
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