伝記
メフメト2世は、1432年3月30日、オスマン帝国のスルタン・ムラト2世と、ヨーロッパ出身の奴隷ヒュマ・ハトゥンの子として、首都エディルネの宮殿で生まれた。幼いころは家庭教師のダイイ・ハトゥンに養育され、継母であるセルビア公の娘から東ローマ帝国の首都コンスタンティノープルを描いた絵を見せられて、この町に強い興味を抱いたという。1443年には慣習に従ってマニサに知事として赴任し、神学者グラニのもとで学んだ。
1444年、ハンガリー王国などとの和約が結ばれると、メフメトは父から譲位されてスルタン位に就いた。ムラトは大宰相チャンダルル・ハリル・パシャに補佐を任せてマニサに退いたが、メフメトは補佐役のハリルを「ララ(じい)」と呼びながらも打ち解けられなかった。同年9月、フニャディ・ヤーノシュとポーランド王ヴワディスワフ3世が率いる連合軍が侵入すると、ハリルはメフメトでは対処が困難だと考えてムラトの復位を求めた。ムラトはヴァルナの戦いで勝利したのちに退位したが、1445年にイェニチェリの反乱が起きて再び復位を要請され、1446年にメフメトは帝位を返上してマニサへ戻った。自身を軽んじたハリルへの敵意は、ザガノス・パシャら側近に煽られたとされる。マニサではヴェネツィアの船や島を襲う一方、イスラーム世界や西欧の知識人を招いて学び、時にはムラトの遠征に従って、1448年のコソヴォの戦いや1450年のアルバニア遠征にも加わった。
1451年2月3日にムラトが没すると、メフメトは「我を愛する者は後に続け」と叫んで馬に乗り、エディルネへ直行したと伝えられる。これに先立つ1450年から1451年の冬には、ドゥルカディル侯国の王女シット・ハトゥンとの結婚式が、エディルネで3か月にわたって開かれていた。この即位で幼い弟アフメトを浴場で絞殺させ、イェニチェリには賞与を払った。後継者候補を殺して内紛を防ぐ慣習は、この治世から慣例化されたと考えられ、ウラマーの賛同で法的な効力も追認された。そして第一の目標であるコンスタンティノープル攻略に着手し、ボスポラス海峡のヨーロッパ岸にルメリ・ヒサルを築かせて通行船を捕らえる態勢を整えた。過去の包囲の教訓から短期決戦を選び、ハリルらの反対を押し切って、1453年4月6日に包囲を始めた。ハンガリーの技師ウルバンが改良した大砲が城壁に大損害を与え、5月29日に市を攻略して東ローマ帝国を滅ぼした。メフメトは市内の略奪を取り締まり、城内のキリスト教徒の自由を保障し、6月1日にはゲオルギオス・スホラリオス(ゲンナディオス2世)を総主教に叙任した。同年8月にはハリルを処刑して財産を没収し、バルカン出身のザガノスを大宰相に起用した。
その後も征服を続け、1456年のベオグラード包囲では大敗して、メフメト自身も額に傷を負った。以後は目標をバルカン半島の内部に移し、1458年にペロポネソス半島へ進み、1459年にはベオグラードを除くセルビアの征服を終え、1460年にはボスニアを攻め、1461年にトレビゾンド帝国を併合した。30年に及ぶ征服から「征服者」と呼ばれ、コンスタンティノープル征服後は「征服の父」「2つの海と2つの大陸の支配者」の称号を用いた。ヨーロッパでは「キリスト教最大の敵」と恐れられた。一方で宮廷には国際的な空気が流れ、アレクサンドロス大王の伝記を好んで読み、ルネサンス君主の一人に数えられることもある。1481年5月3日に没した。
同じ年に亡くなった人物
- クリスチャン1世 (デンマーク王) (1481年没)
- バルトロメオ・プラティナ (1481年)
- Mahmud Gawan (1481年)
- 一休宗純 (1481年没)
- ルカ・デッラ・ロッビア (1481年没)