伝記
ルイ11世は、フランス・ヴァロワ朝の王(在位1461年〜1483年)である。慎重王と呼ばれるが、「蜘蛛」のあだ名のほうがよく知られる。1423年7月3日、シャルル7世とマリー・ダンジューの子としてブールジュに生まれた。生まれた当時は百年戦争のさなかで、イングランドが北フランスとパリを押さえ、父王は国の中央から南に追い詰められていた。数週間後には、フランス軍がクラヴァンでイングランド軍に大敗している。1429年には、ロシュでオルレアン解放直後のジャンヌ・ダルクに会う機会もあった。ルイは父を弱い王とみなして軽んじていたという。
1436年、父が外交上の理由で選んだスコットランド王ジェームズ1世の娘マーガレットと結婚した。ルイは彼女を顧みず、マーガレットは詩作に短い生涯を捧げたとされる。ルイは父に対する陰謀を繰り返し、1439年と1448年には父王の退位を謀って失敗したとも伝えられる。1440年にはプラグリーの乱と呼ばれる短い反乱に加わった。父王は許し、ルイにドーフィネの統治を任せたが、陰謀は絶えず、宮廷から追放された。のちに父の意に反してサヴォワのシャルロットと結婚し、ブルゴーニュ公フィリップ善良公のもとへ逃れた。敵たちは、あちこちに網を張って獲物を食らう彼を「遍在する蜘蛛」と呼んだ。
1461年に即位すると、近隣の大諸侯の力を削ぐことに力を注いだ。1462年にはアラゴン王ファン2世からルシヨンとセルダーニュが割譲された。ブルゴーニュ公シャルルとは1467年から1477年まで権謀術数の限りを尽くして争い、ペロンヌで和議を進めながら公の支配下のリエージュに反乱を起こさせようとして失敗し、かえってシャルルの捕虜になったこともある。ブルゴーニュ公家に仕え、のちにルイの腹心となった年代記作者コミーヌは、この間の行動を冷静に記した。薔薇戦争では、ブルゴーニュ公国がヨーク家を支持したため、ランカスター家のヘンリー6世の復位を策した。1475年にはイングランド王エドワード4世とピキニー条約を結んで、シャルルを孤立させた。スイス軍と同盟して、グランソンとモラでも勝利を収めた。1477年にナンシーの戦いでシャルルが戦死し、1482年のアラス条約でブルゴーニュの大半を得たほか、アンジュー、メーヌ、プロヴァンスなどを併せ、王国の支配基盤を固めた。
ルイは戦争より外交と陰謀で国内の平和を保ち、荒廃したフランスの統一に最も成功した王とされる。印刷術を保護し、養蚕を南フランスに広め、鉱山を開発した。敵の情報を集めるため、フランスで最初の郵便局を設立したとも伝えられる。トナカイや大鹿など珍しい動物の蒐集に熱中し、ロレンツォ・デ・メディチとも文通した。科学にも関心を寄せ、1474年には、腎臓結石を患う盗賊「ムードンの射手」の生体解剖を許した。ただし、治療法が確立できたかどうかは不明である。一方で、聖遺物を崇拝し、占星術師に囲まれる迷信深い人物でもあった。コミーヌは、王が誰からも愛されていなかったと記している。1483年8月30日に没し、オルレアン近郊の教会に葬られた。シャルロットとの間には、アンヌ、ジャンヌ、のちのシャルル8世が成長した。王位は、唯一生き残った息子のシャルル8世が継いだ。
同じ年に亡くなった人物
- Pero Pardo de Cela (1483年没)
- フランチェスコ・ゴンザーガ (1483年没)
- ギヨーム・デストゥトヴィル (1483年)
- シャルロット・ド・サヴォワ (1483年没)
- ヘンリー・スタッフォード (第2代バッキンガム公爵) (1483年没)
同じ地域に関係する人物
- ユーディト・フォン・アルトドルフ (843年没)
- Jean Marcel Honore (2013年没)
- シャルロット・ド・サヴォワ (1483年没)
- エドゥアール・アンドレ (1911年没)
- フルク1世 (アンジュー伯) (942年没)