HISTORICAL PERSON · 1485年没

リチャード3世 (イングランド王)

ヨーク朝最後のイングランド王。兄エドワード4世に忠誠を尽くし、1483年に即位した。ボズワースの戦いで戦死し、これにより薔薇戦争は実質的に終結した。紋章院も創設した。

生涯
1485年没
死亡地
イギリス連邦(レスターシャー / ボズワース古戦場)
出生地
イギリス連邦(フォザリンゲイ城)
出典
世界地図
イギリス連邦(レスターシャー)

伝記

リチャード3世は、ヨーク朝(プランタジネット朝)最後のイングランド国王(在位1483年〜1485年)である。1452年10月2日に生まれ、ボズワースの戦いで戦死して、これにより薔薇戦争は実質的に終結した。エドワード3世の曾孫であるヨーク公リチャードとセシリー・ネヴィルの八男で、エドワード4世、ラトランド伯エドムンド、クラレンス公ジョージの弟にあたる。即位前はグロスター公に叙されており、1483年には護国卿も務めた。戦死した最後のイングランド王であり、旗印は白い猪、銘は古フランス語の「忠誠がわれを縛る」だった。1484年1月には、王直属の機関として紋章院を創設している。

幼くして父を失い、兄エドワードや母方の従兄で実力者のウォリック伯リチャード・ネヴィルの庇護を受けて育った。ウォリック伯のもとで少年期を過ごして騎士の修業を積み、1461年に兄がエドワード4世として即位すると、グロスター公に叙された。1470年、ウォリック伯がランカスター派に寝返って兄王を追放した際には、ウォリック伯の誘いを拒んで兄への忠誠を貫き、翌1471年の兄王の復位に貢献した。1472年、ウォリック伯の娘で、ヘンリー6世の子エドワード・オブ・ウェストミンスターの寡婦であったアン・ネヴィルと結婚する。1478年にアンの姉イザベルの夫だった兄クラレンス公が処刑されると、広大なウォリック伯領を独占的に相続し、実力者としての地位を確立した。

やがて王妃エリザベス・ウッドヴィルの一族が政権内で勢力を伸ばすと、これと対立するようになる。1483年にエドワード4世が病死すると、その息子で甥にあたるエドワード5世の摂政となった。まもなくリヴァーズ伯アンソニー・ウッドヴィルら王妃派を捕らえて粛清し、協力者のヘイスティングス男爵も処刑し、エドワード5世と弟のリチャードをロンドン塔に幽閉した。二人はそのまま消息不明となり、殺されたと考えられてきたが、近年では生存説も唱えられている。同年6月26日、エドワード5世の正統性を否定した議会に推挙され、リチャード3世として即位した。10月には、政権樹立に貢献したバッキンガム公ヘンリー・スタッフォードが反乱を起こしたが、これを鎮圧した。それでも反乱の噂は絶えず、政情は不安定なままだった。

1484年4月に一人息子のエドワード・オブ・ミドルハムが夭折し、1485年3月には王妃アンも病死した。一人息子の死後、王は甥のウォリック伯エドワードを後継者に指名したが、王妃の死後に取り消し、リンカーン伯ジョン・ド・ラ・ポールを指名した。1485年8月、ランカスター派のリッチモンド伯ヘンリー・テューダー(のちのヘンリー7世)がフランスから侵入し、ボズワースの戦いで王は自ら軍を率いて決戦した。味方の裏切りに遭い、自ら戦斧を振るって奮戦したが敗死し、遺体は当時の慣習に倣って丸裸にされ、晒された。

のちにシェイクスピアの戯曲『リチャード三世』は、彼を残忍で容姿の醜い悪人として描き、その姿が後世に伝わった。一方、現代にはその悪名を見直そうとする「リカーディアン」と呼ばれる人々もいる。遺体の埋葬場所は長らく不明だったが、2012年9月にレスター市中心部の駐車場の下から遺骨が発見され、2013年2月にDNA鑑定で本人のものと断定された。遺骨には強い脊椎側彎症が確認され、ボズワースの戦いで11か所の傷を負っていたことも明らかになった。うち9か所は兜に守られていない頭部にあった。遺骨は2015年3月にレスター大聖堂へ改葬された。

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