伝記
ネリー・ザックスは、1891年12月10日にベルリンのシェーネベルクで生まれ、1970年5月12日にストックホルムで没したドイツの詩人、劇作家である。ナチス・ドイツによる迫害の経験から、ユダヤ人の悲嘆の代弁者となり、戦後ドイツを代表する詩人の一人とされる。1966年に、シュムエル・アグノンと共にノーベル文学賞を受けた。本名はレオニーといい、ネリーは愛称である。
ユダヤ系の裕福な工場主の一人娘として生まれた。父ウィリアムは発明家で実業家、母はマルガレータで、一家はベルリンのユダヤ人共同体に属したが、宗教的には自由な立場で、ユダヤの祝祭日は祝わなかった。体が弱く、自宅で教育を受け、早くから舞踊の才能を示したが、過保護な両親は、芸術の道に進ませなかった。内気で守られた娘として育ち、生涯、結婚しなかった。15歳のとき、スウェーデンの作家セルマ・ラーゲルレーヴの『イェスタ・ベルリングの伝説』を読み、この作家に手紙を送り始めて、約35年にわたる交流が続いた。ドイツ・ロマン派の詩人たちの影響のもとで、早くから詩や戯曲を書き、オーストリアの作家シュテファン・ツヴァイクが、詩の一編の発表に力を貸したという。1921年には最初の本『伝説集』を出版し、1929年に新聞に初めて詩を発表した。亡命前の作品の多くは、失われたか、自ら破棄したとされる。
1930年に父が癌で亡くなると、母と二人で静かな地区に暮らしたが、ナチスが政権を握ると生活は一変した。1939年には、すべてのユダヤ人女性と同じように、母とともにサラという名を名乗ることを強いられた。1940年、強制労働収容所に送られると知り、友人を通じてラーゲルレーヴに、母とともにスウェーデンへ逃れる助力を求めた。ラーゲルレーヴは王室に働きかけ、出国のための通行証を得た。ザックスは、小さなスーツケースと10マルクだけを持って出発した。通行証は、収容所への移送命令と同時に届いたという。亡命の成功には、オイゲン王子の助力も大きかったといわれる。この亡命でナチスのユダヤ人狩りを逃れられたが、許婚は命を落とした。スウェーデンでは、母とワンルームの部屋で暮らし、50歳を過ぎてからスウェーデン語を学んで、生活の糧を得るために翻訳を始めた。
詩人としての本格的な歩みは、亡命後、50歳近くになってから始まった。1947年に最初の詩集『死神の住処で』を発表し、ユダヤ人の苦しみを、宇宙的な枠組みのなかで描いた。強く現代的な文体ながら、旧約聖書の預言者の言葉も響かせている。詩劇『エリ』(1950年)、詩集『逃亡と変容』(1959年)、『塵なき境への旅』(1961年)などがある。1952年にスウェーデン国籍を取得した。故郷ベルリンを訪れたのは、1965年の一度だけである。1950年の母の死の直後をはじめ、幾度も精神的な危機に見舞われ、1960年には重い危機に陥って、精神病院に入院した。ナチズムによる迫害の経験と、その復活への恐れが影響していた。パウル・ツェランとは16年間手紙を交わし、二度会っている。1961年に創設されたネリー・ザックス賞の初回受賞者となり、1965年にはドイツ書籍協会平和賞を受けた。ノーベル賞の受賞時、アグノンがイスラエルを表し、自分はユダヤ人たちの悲劇を表すと語った。晩年は癌に苦しみ、ストックホルムで亡くなった。
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