HISTORICAL PERSON · 1970年没

スカルノ

インドネシアの初代大統領。独立運動を率い、雄弁な演説と人気で民族意識を高め、国父として敬われている。1965年の事件で失脚した。

生涯
1970年没
死亡地
インドネシア共和国(ジャカルタ)
出生地
インドネシア共和国(スラバヤ)
出典
世界地図
インドネシア共和国(ジャカルタ)

伝記

スカルノは、1901年6月6日にジャワ島東部の都市スラバヤで生まれた、インドネシアの初代大統領である。オランダ領東インド時代から民族主義運動、独立運動に大きな足跡を残し、雄弁な演説とカリスマ性で大衆の民族意識を鼓舞した。父はジャワの下級貴族の出身で小学校教師、母はバリ人貴族の出身でヒンドゥー教徒だった。名のスカルノは、ジャワのワヤン劇に登場する武芸の達人カルノに由来し、「S・カルノ」と署名したこともあるという。幼い頃からオランダ語を学び、ヨーロッパ人子弟の通う小学校を経て、スラバヤの高等市民学校を1921年に卒業した。オランダがバンドンに創設した高等工業学校に入学し、1926年5月に卒業している。

大学卒業とともに本格的に反植民地運動を始め、1927年7月4日に、オランダ留学から帰国した同志らとインドネシア国民党を結成した。各地で集会を開き、熱のこもった演説で聴衆を魅了して、「民族の指導者」と認められるようになった。1929年12月に植民地政府に逮捕されて禁錮刑を受け、1931年2月に恩赦で出獄したが、1933年8月に再び逮捕され、フローレス島のエンデに、続いて1938年にスマトラ島のベンクルに流された。ベンクルで、のちに第1夫人となるファトマワティと出会って結婚した。1941年12月に太平洋戦争が始まり、日本軍がオランダ軍を放逐すると、第16軍司令官の今村均が、囚われていたスカルノやハッタらを解放し、日本軍統治への協力を求めた。スカルノらは「民衆総力結集運動」を組織して独立のために日本軍に協力し、1943年にはハッタとともに日本を訪れて、昭和天皇と面会した。

日本が降伏してから2日後の1945年8月17日、権力の空白をぬって、スカルノとハッタが「インドネシア国民の名において」独立を宣言した。これを認めないオランダは軍を派遣し、インドネシア独立戦争が起こった。1946年11月にリンガジャティ協定が成立したが、オランダ軍は1947年1月に攻撃を再開した。1948年12月にはジョグジャカルタを陥落させ、スカルノとハッタらを逮捕してバンカ島に幽閉した。しかし国際世論はオランダを非難し、アメリカも経済援助の停止を通告した。スカルノらは1949年7月6日にジョグジャカルタに帰還し、同年12月のハーグ協定で、オランダはインドネシアを放棄することになる。

独立後は、1950年憲法のもとで強い権力を与えられず、政党政治家への不信が高まった。1950年代末から、議会制を停止して自らが国内諸勢力の調停者として国家を指導する「指導される民主主義」を打ち出し、1959年7月5日に議会を解散し、強い大統領権限を与えた1945年憲法への復帰を宣言した。1955年には、バンドンで第1回アジア・アフリカ会議を主催し、第三世界のリーダーの一人として脚光を浴びた。宗教やイデオロギーの異なる勢力の団結を訴えるスローガンとして、1950年から1965年にかけて「ナサコム」を叫び続け、共産党と国軍の拮抗を利用して権力のバランサーとして生き延びようとした。日本とも親密で、1962年には日本人女性デヴィ・スカルノを第3夫人に迎えた。1965年の「9月30日事件」で失脚し、不遇の晩年を送ったが、国民からは今も「ブン・カルノ」と呼ばれて敬愛され、1970年6月21日に没した。最高額面の10万ルピア紙幣に肖像が使われている。

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