HISTORICAL PERSON · 1970年没

セミョーン・チモシェンコ

ソ連の元帥。貧農の家に生まれ、ロシア内戦で騎兵部隊を率い、戦前は国防相を務め、第二次世界大戦でも司令官として活躍した。ソ連邦英雄に2度なった。

生涯
1970年没
死亡地
ロシア連邦(モスクワ)
出生地
ウクライナ(フルマニウカ)
出典
世界地図
ロシア連邦(モスクワ)

伝記

セミョーン・コンスタンチーノヴィチ・チモシェンコは、1895年2月18日に、ベッサラビア県アッケルマン郡フルマンカ村(現在のウクライナ、オデッサ州)の貧しい農家に生まれたソビエト連邦の軍人である。ソ連邦元帥で、ソ連邦英雄の称号を2度受けた。1914年にロシア帝国陸軍に召集され、第一次世界大戦に従軍した。機関銃手として戦ったとする記述と、騎兵だったとする記述がある。1917年に革命が起こると赤衛隊に入って、コルニーロフ軍の撃滅に加わり、1918年には赤軍に入って、1919年に共産党に入党した。

ロシア内戦では、セミョーン・ブジョーンヌイの騎兵隊で、小隊長、中隊長として戦い、まもなく連隊長となった。1919年には第6騎兵師団長としてヴォロネジやロストフ、ジトーミルなどの戦いに参加した。ツァリーツィンでは騎兵連隊を指揮し、市の防衛を担当していたスターリンと知り合って親しくなり、これがのちの彼の出世を支えたとされる。1920年のポーランドとの戦争では、第6師団がポーランド軍の塹壕に突撃して大きな損害を出し、塹壕への突撃は無意味だという認識を指揮官たちに与えた。同年8月には、第4騎兵師団長として、ヴランゲリ軍とマフノ軍を撃破し、赤旗勲章2個を授与された。その後、第3騎兵軍団長となり、1922年と1927年に高等学術課程を、1930年に軍事政治アカデミーの課程を修了した。1933年に白ロシア軍管区の副司令官となり、この在任中にゲオルギー・ジューコフと知り合った。1935年にキエフ軍管区の副司令官、1937年に北カフカーズ軍管区の司令官、のちにハリコフ軍管区の司令官を経て、1938年2月にキエフ特別軍管区の司令官となった。スターリンとの結びつきにより、大粛清を生き延びたとされる。1939年9月には、ポーランド領となっていた西ウクライナを奪還するためのポーランド侵攻を指揮した。

1940年1月、冬戦争で苦戦していたヴォロシーロフに代わり、北西戦線の司令官となって、マンネルハイム線の突破を指揮した。この功績によりソ連邦英雄の称号が授与された。1940年5月、ヴォロシーロフの後任として国防人民委員に就任し、ソ連邦元帥に昇進した。赤軍の近代化を進め、予想されるドイツとの戦争に備えようとした。1941年にドイツ軍がソ連に侵攻すると、西部戦線の司令官に転任し、ソ連軍総司令部が設置されるとその委員の一人になった。1941年9月から12月と1942年4月から7月には南西戦線の司令官を務め、1941年末のロストフでの大規模な反攻で、国際的な名声を得た。しかし1942年のハリコフでのソ連軍の大敗北などを受けて、運は傾き、7月に新設のスターリングラード戦線の司令官となったが、まもなく交代した。同年10月に北西戦線の司令官に転任し、その後は総司令部の代表として、各戦線間の行動の調整に当たった。

戦後はバラノヴィチ軍管区の司令官となり、1946年から1949年まで南ウラル軍管区の司令官を務めた。第二の故郷と考えていた白ロシア軍管区に、1949年に司令官として戻った。1960年4月に定年により国防省の監察総監となり、1961年から1969年までソビエト古参兵士委員会の議長を務めた。1970年3月31日に亡くなり、遺体は赤の広場のクレムリンの壁に埋葬された。勝利勲章、レーニン勲章5個、赤旗勲章5個などを受けた。趣味は乗馬、狩猟、読書であった。

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