HISTORICAL PERSON · 1970年没

パウル・ツェラン

ウクライナ出身のドイツ系ユダヤ人の詩人。本名の文字を並べ替えて筆名とし、戦後のドイツ語圏を代表する詩人で、20世紀を代表する一人とされる。

生涯
1970年没
死亡地
フランス共和国(パリ)
出生地
ウクライナ(チェルニウツィー)
出典
世界地図
フランス共和国(パリ)

伝記

パウル・ツェランは、1920年11月23日にルーマニア領ブコビナ地方のチェルニウツィ(現在はウクライナ領)で生まれたドイツ系ユダヤ人の詩人である。本名はパウル・アンチェルといい、ツェランという筆名は、このルーマニア風の姓のアナグラムである。ユダヤ教徒の両親のもとで、ドイツ語を用いて育った。6歳でユダヤ系の国民学校に入ってヘブライ語を学び、10歳でルーマニア国立のギムナジウムに進んでルーマニア語を学ぶなど、早くから多言語の習得を余儀なくされた。1933年のバル・ミツヴァの後には、反ファシズムの青年グループに加わった。1938年にはフランスで医学を学んだが、のちにルーマニアに戻り、1939年からチェルニウツィ大学でロマンス語文学を学んだ。

1941年にナチス・ドイツがソ連に侵攻して、ブコビナがルーマニアに戻ると、両親とともにゲットーへ移された。1942年、両親はトランスニストリアの強制収容所へ移送され、ツェラン自身も強制労働に狩り出された。同年秋、両親は収容所内で亡くなった。父は移送中にチフスに感染し、母は射殺されたという。ツェランは1942年から1944年まで各地の労働収容所に送られ、南モルダウで土木工事などを強いられた。1944年に赤軍によってチェルニウツィーが解放されると、精神的に憔悴しながらも町に戻って学業を再開し、英文学などを学んだ。1945年に親戚とともにブカレストに移り、ロシア文学をルーマニア語に訳す仕事に就いた。この間に自作の詩の発表を始めた。共産主義の独裁の風潮を嫌って、1947年にルーマニアを離れ、ウィーンを経て1948年にパリへ亡命した。そして第一詩集『骨壷の中の砂』を出版した。

パリでは、高等師範学校でドイツ語の講師や翻訳者として働いた。1951年に女性の版画家ジゼル・ド・レストランジュと知り合い、1952年に結婚した。同じ年に「47年グループ」と知り合ったのを機に、詩集『罌粟と記憶』を出版し、ナチスによるユダヤ人虐殺を主題にした代表作を収めた。1955年にフランスの市民権を得て、同年、第二子のエリックが生まれたが、第一子は生後まもなく他界していた。1958年に賞を受け、1960年にはゲオルク・ビューヒナー賞を受けた。その受賞記念講演『子午線』は、彼の重要な詩論である。同じ時期には、作家クレール・ゴルから、亡き夫の詩を剽窃したと公然と非難された。反論のため文壇に支持を求めたが、得られなかった。1965年からは、何度も精神科の病院に入院した。1967年にはトートナウベルクに哲学者マルティン・ハイデガーを訪ね、殺されたユダヤ人たちへの言葉を期待したが、彼は何も語らず、この沈黙が詩『トートナウベルク』を生んだ。同年、ジゼルと離婚した。

シュルレアリスムや象徴主義、リルケやカフカの文学遺産を引き継ぎながら、独特の具象的な詩を書いた。作品の根底には、収容所で失った両親や仲間への切実な思いがあり、アドルノの言う「アウシュヴィッツ以後」に可能な詩の形を示したといえる。後年には造語や古語を用いた訥々とした詩を書くようになり、「難解」「秘教的」という批判も受けた。1970年4月20日ごろ、パリで死去した。遺体はセーヌ川で発見され、自殺と考えられている。

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