伝記
三島由紀夫は、本名を平岡公威(きみたけ)といい、1925年1月14日に東京市四谷区で、父梓と母倭文重の長男として生まれた小説家、劇作家である。戦後の日本の文学界を代表する作家の一人で、ノーベル文学賞の候補にもなるなど、日本国外でも広く認められた。「公威」の名は、祖父定太郎が、恩人で同郷の土木工学者の古市公威男爵にあやかって付けた。家は借家ながら、同じ番地で一番大きな二階家で、両親と父方の祖父母のほかに、女中や書生が暮らしていた。祖父の定太郎は、内務官僚として福島県知事や樺太庁長官などを務めたが、疑獄事件で失脚した人物である。父は東京帝国大学を出て農林省に勤め、母は加賀藩主の前田家に仕えた儒学者の家の出だった。祖父、父、そして彼と、三代にわたって同じ大学の学部を卒業した、官僚の家柄であった。
幼年期の彼は、祖母夏子の絶対的な影響の下に置かれた。夏子は、生後49日目の公威を「二階で赤ん坊を育てるのは危険だ」という口実で両親から奪い、自室で育て始めた。男の子らしい遊びは禁じられ、遊び相手には年上のおとなしい女の子が選ばれた。5歳の時には自家中毒で死の一歩手前までいった。一方で、読書家で歌舞伎や谷崎潤一郎、泉鏡花を好んだ夏子の嗜好は、後年の小説家、劇作家としての素養を培った。1931年に学習院初等科に入り、初等科の1、2年から詩や俳句を機関誌に発表し始めた。青白い子で本ばかり読み、虚弱だったため、当時の綽名は「アオジロ」だった。
1937年に学習院中等科に進み、両親のもとに戻った。同年、校内誌に作文を発表して、自作の散文が初めて活字となった。国語教師の岩田九郎に才能を認められ、以後、約7年間に多くの詩歌や散文、戯曲を発表した。11、12歳の頃にはワイルドに魅せられ、やがて谷崎潤一郎やラディゲも読み始めた。この年の秋には、8歳年上の高等科の文芸部員、坊城俊民と出会い、文学の交遊を結んだ。1938年10月には、祖母に連れられて初めて歌舞伎を観劇し、能も観て、これ以降、歌舞伎や能に夢中になった。1939年に祖母が亡くなり、同年、清水文雄が国語の担当となって、生涯の師となり、平安朝文学への目を開かせた。1941年7月に「花ざかりの森」を書き上げ、清水に原稿を送って批評を請うた。父は文学に夢中な息子を叱って、原稿用紙を破いたが、母がこっそりと新しい原稿用紙やインクを調達して、執筆を助けたという。
戦後は、小説に『仮面の告白』『潮騒』『金閣寺』『鏡子の家』『憂国』『豊饒の海』など、戯曲に『近代能楽集』『鹿鳴館』『サド侯爵夫人』などを書いた。修辞に富んだ絢爛豪華で詩的な文体と、古典劇を基調にした人工性、構築性にあふれる唯美的な作風が特徴である。晩年は政治的、国粋主義的な傾向を強め、陸上自衛隊に体験入隊し、民兵組織「楯の会」を結成した。1970年11月25日、楯の会の隊員4名とともに、自衛隊市ヶ谷駐屯地を訪れ、東部方面総監を監禁した。バルコニーから自衛隊員にクーデターを促す演説をしたのち、割腹自殺を遂げた。この事件は社会に大きな衝撃を与え、新右翼を生み出すなど、政治運動や文学界にも大きな影響を及ぼし、彼の死によって一つの時代が終わったとも言われた。
同じ年に亡くなった人物
- ジョン・ビーズリー (1970年没)
- アンドレイ・エリョーメンコ (1970年没)
- ゼキ・ヴェリディ・トガン (1970年没)
- レフ・クレショフ (1970年没)
- アリス・ハミルトン (1970年没)