HISTORICAL PERSON · 1970年没

フランソワ・モーリアック

フランスのカトリック作家。1926年にアカデミー・フランセーズ賞、1952年にノーベル文学賞を受け、同賞受賞者として初のノーベル賞作家となった。

生涯
1970年没
死亡地
フランス共和国(パリ / 16区)
出生地
フランス共和国(ボルドー)
出典
世界地図
フランス共和国(パリ)

伝記

フランソワ・モーリアックは、1885年10月11日にボルドーで生まれたフランスのカトリック作家である。1926年にアカデミー・フランセーズ賞を受賞し、1933年に同アカデミーの会員に選ばれ、1952年にノーベル文学賞を受賞した。ボルドーの中産階級の家の末っ子で、姉と3人の兄がいた。父は材木商や銀行家、土地所有者で、文学を好んだが、長男であったため実業の道に進まされた。その父は、息子が生後20か月の時に、脳の膿瘍がもとで37歳で亡くなった。以後、彼は、きわめて敬虔なカトリックの母と、祖母、法律家の叔父に囲まれて育った。父を知らない彼は、父の深く世俗的で共和主義的な考えを、母の宗教的な形式主義に対する重しとして解釈した。

1892年から、マリア会の学校で初等・中等教育を受けた。13歳の時に初の本格的な作品として、姉に捧げた通俗劇を書いた。1902年に祖母が亡くなったことは、少年に大きな衝撃を与えた。祖母が臨終の床にあるそばで、宗教的で中産階級の家族が早くも遺産を分け合うのを見て、その偽善を知ったのである。哲学の大学入学資格試験の第2部に失敗して留年したが、公立の高校で、アンドレ・ジッドの義兄にあたる教師から、クローデルやジャム、ランボー、ボードレール、ジッドなどの作品を教わった。それらはいずれも家庭や学校で禁じられていた。モーリス・バレスの思想にも触れ、青春期に深い影響を受けた。大学入学資格を得たのち、ボルドー大学の文学部で学び、1905年頃からは、カトリックの運動であるシヨンのボルドーのサークルに通った。

1906年に、家族の仕送りでパリに出て、国立古文書学校に入ったが、まもなく退学した。以後は、文学に専念し、雑誌に詩を寄稿した。1909年に処女詩集『合掌』を発表し、バレスから称賛を受けたが、一般の読者に知られるようになったのは、約10年後だった。第一次世界大戦に従軍し、戦後の1922年に『癩者への接吻』を発表して小説家としての地位を確立した。続いて1923年に『火の河』『ジェニトリクス』を、1925年に『愛の砂漠』を出し、これによってアカデミー・フランセーズ賞を受けた。1927年の『テレーズ・デスケルウ』や、1932年の『蝮のからみあい』などで知られ、『イエスの生涯』や、ラシーヌ、パスカルを論じたもの、小説論も残した。

作品の舞台や題材は、故郷ボルドー地方の風物や、古い伝統や因習の殻に閉じこめられた家庭生活で、個人と家庭、信仰と肉の葛藤、エゴイズムと宗教意識の戦いを主なテーマとした。我執や肉欲にとらわれる人間の内面を執拗に分析して、神なき人間の悲惨を描いた。独自の内的独白の手法を用い、文体は古典的で端正であり、深刻な道徳問題を扱う心理小説家として、独自の地位を保った。戦前は反ファシストの論陣を張り、第二次世界大戦中は反ナチスの抵抗運動に参加し、その記録を、筆名フォレで『黒い手帖』(1943年)として、地下出版の深夜叢書から刊行した。戦後は急進カトリック派の重要人物として、保守主義の立場から実存主義と共産主義に対決した。遠藤周作や三島由紀夫に影響を与えた。1970年9月1日に死去した。

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