伝記
マーク・ロスコは、1903年9月25日に、当時ロシア帝国領だったラトビアのドヴィンスクで、ユダヤ系の両親のもとに生まれた、ロシア系ユダヤ人のアメリカの画家である。ジャクソン・ポロックやバーネット・ニューマン、ウィレム・デ・クーニングらとともに、抽象表現主義の代表的な画家とされる。父ヤコブは薬剤師で知識人であり、当初はマルクス主義者で反宗教的だったため、子どもたちに宗教よりも政治や社会について教えた。ロシアではユダヤ人への偏見から迫害があり、幼いロスコもそうした環境に恐れを抱いていた。のちに父は正統派ユダヤ教に回帰し、末の子のロスコは、5歳のころからユダヤ教の初等学校に通って、タルムードを学んだ。収入は高くなかったが、家族は優れた教育を受け、妹は「私たちは本を読む家族だった」と語っている。
反ユダヤの襲撃が盛んになり、父は息子がロシア帝国陸軍に招集されることを恐れて、アメリカへの移住を決意した。1910年に父が単身で渡米し、その2年後に兄たちが続いた。ロスコは母や姉とともに、1913年の冬にエリス島に着き、オレゴン州ポートランドの父と兄たちのもとに移った。汽車の中で、3人は「われわれは英語が話せません」というバッジを胸につけていたという。父は1914年3月に結腸癌で死に、家族は経済的な基盤を失った。ロスコは叔父の倉庫で働きながら新聞売りもした。リンカーン高校では文学、哲学、社会学に興味を示し、ギリシャ神話にも親しんで、ユダヤ人コミュニティーセンターでは政治的議論を得意とした。父のように労働者の権利や女性の権利に情熱を注ぎ、活動家エマ・ゴールドマンの講演にも足を運んだ。
1921年に奨学金を得てイェール大学に進み、心理学を学んだが、奨学金を更新できず、ウェイターや配達員をしながら学んだ。学生の多くがエリート主義で差別主義だと知り、友人とともに、学校の古風なしきたりを風刺する雑誌を発行した。勤勉な学生というより独学の人で、ほとんど勉強しないように見えたが熱心な読書家だったという。2年を終えた1923年に中退し、46年後に名誉学位を授与されるまで戻らなかった。その秋にニューヨークへ移り、アート・スチューデンツ・リーグでヌードデッサンの様子を見て、美術の世界に入ると決めたと本人は語っている。1925年に再びニューヨークへ出て、パーソンズ美術大学でグラフィック・デザインを学び、アーシル・ゴーキーに教わった。同じ秋にキュビスムの作家マックス・ウェーバーの講義を受け、美術を宗教的・感情的な表現の道具としてみるようになった。
1928年には他の若い作家とともにオポチュニティ・ギャラリーで展示を行い、都市の風景を描いた暗く不気味な絵画が、批評家や仲間に評価された。1929年から1952年までは、センター・アカデミーで子どもたちに粘土彫刻を教えて生計を立てた。この間、15歳年上の作家ミルトン・エイブリーの周りで、ニューマンやアドルフ・ゴットリーブらと出会い、エイブリーの豊かな色彩に強い影響を受けた。1933年にポートランド美術館で初の個展を開き、1935年にはゴットリーブらとともに「ザ・テン」を結成した。1938年にアメリカ国籍を取り、1940年に名を「マーカス・ロスコビッチ」から「マーク・ロスコ」に短縮した。1940年代には、神話の主題を探り、フロイトやユングを読んで、神話的シンボルに関心を寄せた。長方形の色面を重ねる晩年の作風は、最後の仕事となったロスコ・チャペルに結実した。1970年2月25日に没した。
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