伝記
バーナード・アルバート・ウッセイ(ベルナルド・ウサイとも)は、1887年4月10日、ブエノスアイレスで、フランスからアルゼンチンに移住した両親のもとに生まれた生理学者である。8人きょうだいの4番目で、父アルバートは法廷弁護士、母はクララといった。早熟の天才で、学校の初等の学年を飛び級し、10代前半のうちから、ブエノスアイレス大学の薬学の課程に進んだ。医学の道を志したが、若すぎることを理由に断られたためだともいう。大学在籍3年目には生理学研究生兼講師に抜擢され、卒業後は下垂体の生理学的機能についての医学博士論文に取り組み、1911年に発表した。この主題は、生涯をかけて取り組む対象となった。学資を得るため、ブエノスアイレスの病院で医師の補助を務め、1913年にはアルベアル病院の主任医師、1915年には国立の研究所の実験病理学部主任に就任した。研究者としての出発点では、クロード・ベルナールの研究手法に大きく影響を受けたという。
1919年、ブエノスアイレス大学で生理学研究所を創設し、生理学講座を受け持った。1943年までの在任中、この研究所を実験生理学の国際的に評価の高い中心へと導き、弟子たちはのちにアルゼンチンで最初の生理学教授となった。1920年には、化学博士のマリア・アンヘリカ・カタンと結婚し、3人の子をもうけた。しかし1943年、民主的な選挙を求める声明に署名するなどの自由主義的な言動を軍事政権に警戒され、大学のポストを剥奪された。同様に追放された科学者約150人と、私費で実験医学生物学研究所を設立し、糖尿病や高血圧、内分泌学、薬理学などの研究を続けた。ペロンの政権になっても公職への復帰はかなわず、他国から寄せられた誘いを断ってアルゼンチンにとどまった。
1930年代には、脳下垂体前葉の成分が糖尿病を誘発する効果を持つことを示し、その切除が糖尿病の悪化を抑える手段になることを明らかにしていた。この報告はホルモンの自動制御の仕組みの解明に寄与し、現代内分泌学の基礎となった。1947年、カール・コリとゲルティー・コリの夫妻とともに、「糖の物質代謝において脳下垂体前葉ホルモンの演ずる役割の発見」により、ノーベル生理学・医学賞を受けた。ラテンアメリカの科学者として最初のノーベル賞受賞者だった。ペロン政権は受賞を報道しないよう命じ、政権との緊張は和らがなかったという。
1955年の軍事クーデターでペロンが亡命すると、ようやく大学に復職し、停年まで務めた。1950年代末には国家科学技術研究会議の初代会長に就き、ラテンアメリカ全域の科学研究と薬学教育の発展に力を尽くした。レニン・アンジオテンシン系を解明したエドゥアルド・ブラウン=メネンデスら、多くの弟子を育て、彼らとともに執筆した『人間生理学』は、ラテンアメリカ諸国やスペイン、ポルトガルで刊行され、世界中の学校で用いられた。論文は500を超え、19の大学から表彰された。1946年と1963年にバンティング・メダルを受け、1960年にはイギリス内分泌学会からデール・メダルを贈られた。1971年9月21日に亡くなり、ブエノスアイレスのチャカリータ墓地に埋葬された。
同じ年に亡くなった人物
- レオ・バーネット (1971年没)
- キリロス6世 (1971年没)
- テオドール・スヴェドベリ (1971年没)
- ロバート・ローリー (1971年没)
- ヘレーネ・ヴァイゲル (1971年没)
同じ地域に関係する人物
- エリゼオ・プラド (2016年没)
- Juan Pedevilla (2005年没)
- Adolfo Zumelzu (1973年没)
- アドルフォ・ペデルネラ (1995年没)
- フェリックス・ロウストウ (2003年没)