HISTORICAL PERSON · 1971年没

ココ・シャネル

フランスのファッションデザイナー・企業家。創設したシャネルは世界有数のブランドとなり、婦人服へのジャージー生地の導入などで知られる。

生涯
1971年没
死亡地
フランス共和国(パリ / オテル・リッツ・パリ)
出生地
フランス共和国(ソミュール)
出典
世界地図
フランス共和国(パリ)

伝記

ココ・シャネルは、1883年8月19日にフランスのメーヌ=エ=ロワール県ソーミュールで、洗濯婦ウジェニー・ジャンヌ・ドゥヴォルの子として生まれ、ガブリエル・シャネルと名づけられたファッションデザイナーである。生まれたのは修道女会が運営する慈善病院(救貧院)であった。父アルベールは各地を回って作業着や下着を売り歩く行商人で、定住所をもたず、母ジャンヌとの結婚は1884年のことで、ジャンヌの家族に説得されてのことだった。出生届は両親が不在の状態で代理人によって出されたため、姓の綴りが誤って登録された。夫婦には二男三女が生まれ、一家はブリーヴ=ラ=ガイヤルドの一部屋だけの住居にすし詰めで暮らしていた。

ガブリエルが12歳のとき母が亡くなった。父は息子二人を農場労働者として送り出し、娘三人を、聖母マリア聖心会の運営する孤児院に預けた。生活は厳格で質素だったが、ここで裁縫を学んだことが、のちの仕事につながったともいわれる。彼女にとって孤児院に送られたことは耐え難い惨めな経験で、のちに伝記作家やジャーナリストに問われても、そこでの生活を語ることは一切なかった。18歳になると孤児院を出なければならず、ムーランの町のカトリック女子寄宿舎に預けられた。晩年に語った子ども時代の話には多くの矛盾があり、父がアメリカへ行って自分は二人のおばに預けられたとか、生年は1893年だとか、ミドルネームのボヌールは洗礼のときに修道女が将来の幸福を祈ってつけたとかいった話は、概ね事実ではなく、創作とみられている。

6年間裁縫を学んだ後、仕立て屋に職を得て、副業に、騎兵将校のたまり場だったキャバレーで歌った。ムーランのカフェ・コンセール「ラ・ロトンド」で舞台デビューし、幕間をつなぐ「ポーズ嬢」を務めたが、給料は出ず、テーブルを回ってチップを集めた。「ココ」の名は、この頃によく歌った「ココを見たのは誰?」などの曲に由来するとみられ、本人は父がつけたあだ名だと言うのを好んだ。1906年に温泉地ヴィシーに向かい、芸能人として成功することを夢見たが、容姿は評価されても歌声の評価は低く、舞台の仕事は得られなかった。ヴィシーのミネラルウォーターをグラスに注いで分ける仕事にも就いたが、行楽シーズンが終わるとムーランに戻り、舞台での成功が見込めないことを悟った。

ムーランで出会った元騎兵将校で繊維業者の息子の富裕なプレイボーイ、バルサンの愛人となり、コンピエーニュ近郊のシャトーで暮らした。競馬に熱中する彼のもとで乗馬を学び、仕立て屋に乗馬用のズボンを注文したことが、のちのデザインに影響したといわれる。1909年にはバルサンの友人のボーイ・カペルと関係を持ち、イギリスの上流階級の出であるカペルは、彼女をパリのアパルトマンに住まわせ、最初の店の出店費用も出した。カペルは1918年に別の女性と結婚してからも彼女との関係を完全には絶たなかったが、1919年12月に交通事故で亡くなった。のちに彼女は友人に「彼こそ私が愛したただ一人の男」と語っている。バルサンの家に出入りする女性たちのために帽子をデザインしたのが、仕事の出発点だった。その後、ジャージー生地の婦人服への導入や、リトル・ブラック・ドレス、香水のシャネルNo.5などで世界のファッションに大きな影響を与えた。第二次世界大戦中のフランス占領下ではドイツ人外交官と親しくなり、ドイツの敗北後はスイスに亡命して処罰を免れたが、この行動は批判の対象となった。のちにパリに戻って仕事を再開し、1971年1月10日に亡くなった。

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