伝記
鈴木重義は、1902年10月13日に福島県で生まれたサッカー選手、サッカー指導者である。1936年のベルリンオリンピックでは、サッカー日本代表の監督を務めた。豊島師範附属小学校、東京高等師範学校附属中学校を経て、1920年に早稲田高等学院に入学し、同校でサッカー部(ア式蹴球部)の設立に加わった。在学中、ビルマ人留学生のチョウ・ディンからショートパスなどの指導を受けて、実力を伸ばした。1923年に早稲田大学に入学し、翌1924年には大学のア式蹴球部の創設にも加わった。在学中には、野津謙らと全国高等学校ア式蹴球大会を開催している。早稲田では、のちに日本代表となる多くの選手と共にプレーしたという。
1927年、上海で開かれた第8回極東大会のサッカー日本代表に選ばれ、8月27日にはキャプテンとして中華民国との試合に出場した。8月29日にはフィリピンとの試合でも先制のゴールを決め、日本代表にとって国際大会での最初の勝利に貢献した。日本代表としては2試合に出場して1得点を挙げている。その後は早稲田大学の監督を務めるとともに、1930年に東京で開かれた第9回極東大会では日本代表の監督となり、中華民国と同位ながら、国際大会で初優勝を実現した。翌1931年の1年間は、鈴木の自宅が大日本蹴球協会(現在の日本サッカー協会)の事務所となっていた。
1936年のベルリンオリンピックでも日本代表の監督に就任した。本大会の前に行った練習試合で、当時ヨーロッパに広まりつつあった3バックのWMシステムを目の当たりにして、急遽、代表チームにこの仕組みを導入した。その結果、強豪スウェーデンに逆転で勝利し、これは「ベルリンの奇跡」として知られるようになった。オリンピックでの日本の初勝利でもあった。2016年に、このときのチームも日本サッカー殿堂に選ばれている。鈴木は、大日本蹴球協会で常務理事や主事を歴任し、日本体育協会の専務理事も務めた。また、早稲田大学ア式蹴球部では終身既卒者会会長をつとめた。戦後は同和火災の社員として働き、のちに共栄火災の取締役となった。1971年12月20日に69歳で死去した。2007年に、日本サッカー殿堂に選ばれている。
同じ年に亡くなった人物
- マリオ・マグノッツィ (1971年没)
- 宋子文 (1971年没)
- Erich Abraham (1971年没)
- ウスマル・イスマイル (1971年没)
- ハインツ・ラマーディング (1971年没)