伝記
イーゴリ・フョードロヴィチ・ストラヴィンスキーは、1882年6月17日(ロシアで使われていたユリウス暦では6月5日)に、サンクトペテルブルク近郊のオラニエンバウム(現在のロモノソフ)で生まれたロシアの作曲家である。家は16世紀末にさかのぼるポーランド系の小貴族で、父フョードルは三男で財産を継げなかったが、マリインスキー劇場づきの、当時のロシアを代表するバス歌手として有名だった。両親の希望で官吏の道を目ざし、1901年に大学の法学部へ入学したが、その一方で週に一度、音楽理論を学んだ。法学部で知り合ったリムスキー=コルサコフの末子ウラディーミルの勧めで、1902年夏にリムスキー=コルサコフと会い、個人授業を受けられることになった。同年11月に父が亡くなり、1905年秋ごろからは定期的なレッスンを受け、大学は1906年に学位を取得した。同じ1906年に、幼なじみで従姉のエカテリーナ・ノセンコと結婚している。
リムスキー=コルサコフは1908年6月に没した。バレエ・リュスの主宰者セルゲイ・ディアギレフから最初に頼まれた仕事は、バレエ『レ・シルフィード』のためにショパンのピアノ曲を管弦楽用に編曲することだった。1910年に、バレエ・リュスのために作曲した『火の鳥』がパリのオペラ座で初演されて大成功を収め、翌1911年の第2作『ペトルーシュカ』も成功した。さらに1913年に第3作『春の祭典』がパリで初演された。この上演は楽壇をセンセーショナルな賛否両論の渦に巻き込み、初演では観客の怒号が演奏をかき消すほどであったと伝えられるが、評価はその後すぐに急上昇した。これら3作によって、彼は若手の革命児として名を刻んだ。
夏をウスティルーフ、冬をスイスで過ごしていたが、1914年に第一次世界大戦が始まるとウスティルーフに帰れなくなり、スイスに居を定めた。1917年のロシア十月革命で故国の土地は革命政府に没収され、ロシアからの収入も絶たれて、生活は苦境に陥った。このころ『きつね』『結婚』『兵士の物語』などを作曲した。戦後の1920年にパリで初演された『プルチネルラ』は、18世紀の音楽の旋律と形式をそのまま使いながら新しい管弦楽法で命を吹き込んだもので、1921年以降フランスに落ち着いてから作られる新古典主義音楽のはしりだった。1929年にディアギレフが没すると、アメリカからの依頼で書いた『詩篇交響曲』などが主になった。1934年にフランス市民権を得たが、1938年に長女が結核で亡くなり、翌年には妻と母も失った。1939年9月、ハーバード大学の依頼で渡米し、6回の講義をした(のちの『音楽の詩学』)のち、そのままアメリカにとどまってハリウッドに住み、1945年に市民権を得た。1940年には、パリで関係を持ったヴェラと再婚している。
代表作に『3楽章の交響曲』、バレエ『オルフェウス』、オペラ『放蕩者のなりゆき』(1951年)がある。シェーンベルクが没した1951年ごろから、それまで否定的だった十二音技法を少しずつ採用し、70歳近くでの作風の変貌は世間を驚かせた。1959年に初来日して演奏会を行い、日本の若手作曲家の武満徹を見出して世界に紹介した。1962年、キューバ危機のさなかに80歳でソ連を訪れ、1914年に祖国を離れてから最初で最後の帰郷となった。1966年を最後に新しい曲は書かず、1967年以降は指揮も行わなかった。1971年4月6日、ニューヨークで88歳で亡くなり、ディアギレフの眠るヴェネツィアのサン・ミケーレ島に埋葬された。
同じ年に亡くなった人物
- バート・ローチ (1971年没)
- アンリ・トマジ (1971年没)
- カール・プフェッファー=ヴィルデンブルッフ (1971年没)
- セシル・パーカー (1971年没)
- クレア・ジェイコブス (1971年没)
同じ地域に関係する人物
- ラリー・リンヴィル (2000年没)
- サミュエル・ウィルソン (1854年没)
- Dora (1945年没)
- ジェリー・オーバック (2004年没)
- シュテファン・ヴォルペ (1972年没)