HISTORICAL PERSON · 1971年没

フランソワ・デュヴァリエ

ハイチの政治家。「パパ・ドク」と呼ばれ大統領に当選したが、就任後は民兵組織で政敵を粛清する独裁者となり、終身大統領として親子で長く支配した。

生涯
1971年没
死亡地
ハイチ共和国(西県 / ポルトープランス)
出生地
ハイチ共和国(ポルトープランス)
出典
世界地図
ハイチ共和国(西県)

伝記

フランソワ・デュヴァリエは、1907年4月14日にポルトープランスで生まれたハイチの政治家である。治安判事の父デュヴァルと、パン職人の母ウリシアの間に生まれ、実質的に育てたのは叔母だった。マルティニーク出身の黒人中産階級の家系である。教育を受ける人間のほうが少ない国で、学校に通って読み書きができるようになる幸運に恵まれ、母国の惨状を目の当たりにした。アメリカ海兵隊によるハイチの占領(1915年)と、それを招いた政治的混迷のもとでの暴力的な圧政は、若き日の強烈な記憶として刻まれた。大多数の貧しい黒人たちと、わずかなムラートの権力者との対立に気づいていた彼は、黒人とムラートの階級闘争を説く民俗学者に傾倒し、ネグリチュード運動に身を投じた。

1934年にハイチ大学の医学課程を修了し、医師として地方をまわり、ミシガン大学では1年間、公衆衛生を学んだ。1943年には、アメリカが進めていた熱帯の伝染病の拡大を防ぐ運動に参加し、チフスやイチゴ腫、マラリアなど貧民を苦しめていた疫病に立ち向かった。患者たちから親しみをこめて「パパ・ドク」と呼ばれ、このあだ名を生涯用い続けた。1938年頃からブードゥー教を研究して数多くの民族学的著作を発表し、アフリカ黒人の伝統を賛美する文化人として評価された。同年に雑誌の創刊者の1人となり、翌年にはシモーヌ・オヴィドと結婚して、4人の子をもうけた。

1946年に公共保健省の長官に任命され、のちには労働相を兼ねたが、大統領がクーデターで追放されると居場所を失い、1956年の大赦まで身を隠した。1957年9月22日の大統領選挙に出馬し、軍部の支持を得た北部の大地主で資本家のムラート、ルイ・デ・ジョワイエと争った。ムラートの支配階級に挑むという構図を作り、黒人主義的なポピュリズムを訴えて、67万8860票を集めて圧勝した。10月22日に就任し、当初は抑圧されてきたブードゥー教の正統性を認め、ムラートのエリートが独占していた公職を黒人に開放するなど、進歩的な政策を採った。

しかし、しだいに独裁色を強めた。1958年7月に軍部が起こしたクーデターが失敗すると、参謀幕僚を全員罷免し、忠誠を誓う者を将校に引き立て、大統領親衛隊を精鋭化して権力基盤を固めた。1959年には、民兵組織の国防義勇軍を創設した。クレオール語の悪鬼にちなんで「トントン・マクート」と呼ばれ、1961年頃には常備軍の2倍に膨れあがった。反対派を非合法化し、批判する人間を逮捕、処刑したため、多くの知識人や技術者が欧米に亡命した。ハイチ生まれでない司教のほとんどを追放してカトリック教会から破門されたが、のち1966年にはハイチで聖職者を任命する権利を得ている。自分を黒魔術師と宣伝し、人前に出るときはブードゥー教の死神を思わせる黒装束で現れ、宗教を恐怖政治に利用した。1959年5月には強い心臓発作に襲われ、これ以降、周囲は彼が偏執的になったと考えた。

1961年には憲法をないがしろにして、一人だけが立候補した選挙で任期延長を決め、1964年6月14日には終身大統領を認める憲法改正の国民投票を行い、賛成票は99.9パーセントに達した。援助金の大部分は不正流用されたとされ、アメリカも1962年に経済支援をほぼ打ち切った。国内はそれなりに安定しても、経済は停滞し、国民は貧困に苦しんだ。1971年1月に息子ジャン=クロードを後継に指名し、4月21日に心臓病で死去した。息子は19歳で大統領となったが、1986年に失脚し、一族の独裁は終わった。

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