伝記
アントニヌス・ピウスは、86年9月19日に生まれ、161年3月7日に没した、第15代ローマ皇帝である。ネルウァ=アントニヌス朝の第4代にあたり、アウレリウス氏族の出身者として最初の皇帝となった。執政官経験のある元老院議員ティトゥス・アウレリウス・フルウィウスとアリア・ファディラの一人息子としてラウィニウムに生まれた。父の故郷は南ガリアの古い殖民市コローニア・ネマウサである。父は祖父と共に早くに亡くなり、母方の祖父グナエウス・アリウス・アントニヌスに引き取られて育った。この祖父の親友が『博物誌』の著者大プリニウスだった。フルウィウス家とアントニヌス家、二つの家督と財産を受け継いだことは、大きな利点となった。
111年に財務官となって元老院に議席を得て、117年には法務官に叙任された。110年から115年頃には、皇族の一員であった大ファウスティナと結婚している。彼女の父は執政官マルクス・アンニウス・ウェルスで、母ルピリア・ファウスティナはトラヤヌス帝の大姪にあたる。この結婚は政略ではなく自由恋愛だったと言われ、仲睦まじい夫婦だった。大ファウスティナが141年に死去すると、彼は非常に落胆し、元老院の許可を得て妻を女神として神殿に祭り、妻の名を冠した孤児院も建てたと伝えられる。夫婦には4人の子が生まれたが、長男と次男は先立ち、次女の小ファウスティナは、両親の甥マルクス・アウレリウスと結婚した。
120年に執政官となり、ハドリアヌス帝の側近としての立場を強めた。イタリア本土の長官の一人に指名され、134年にはアシア総督を務めて名声を高めた。ハドリアヌスは寵愛した重臣ルキウス・アエリウスを後継に予定していたが、彼が急死したため、138年2月25日にアントニヌスとその子息を後継者に指名した。同年7月10日にハドリアヌスが病没すると、皇帝として即位を宣言した。
即位後まず彼が行ったのは、先帝を歴代皇帝と同じく神として祭ることだった。ハドリアヌスと対立していた元老院は反対したが、懸命に説得して認めさせた。この行動は主君への献身、すなわちピエタスとして賞賛され、元老院は彼に「慈悲深きアントニヌス」を意味する称号ピウスを与えた。ただし『ローマ皇帝群像』は、ハドリアヌスに処刑されるはずだった人々を救ったためだと主張している。
23年に及ぶ治世に大規模な軍事遠征の記録はなく、軍とは一貫して距離を置いた。ブリタニアやマウレタニアで小規模な動乱はあったが、重大な事件とは受け取られなかった。ブリタニアではスコットランド南部へ軍を進め、アントニヌスの長城を建設させたが、この城壁線は彼の死の3年後に放棄された。彼はイタリア本土を一度も離れず、属州の問題は総督に任せ、宮殿から統制した。学問や芸術を保護して劇場や神殿を建て、ユダヤ教のイェフーダー・ハン=ナーシーの友人として経典の編纂を後援した。5人の法律家の諮問機関を置いてローマ法を改め、奴隷の解放の条件を緩め、容疑者と罪人を区別し、14歳以下の市民権保持者への拷問を原則違法とした。148年にはローマ建国900年の式典を催したが、資金のためデナリウス銀貨の銀含有量を89パーセントから83.5パーセントへ下げねばならなかった。161年、ロリウムで熱病にかかり、2か月の治療の甲斐なく没した。遺灰はハドリアヌス廟に葬られ、大ファウスティナの神殿は「アントニヌス・ファウスティナ神殿」と改称された。
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