HISTORICAL PERSON · 1495年没

ジョアン2世 (ポルトガル王)

アヴィス朝のポルトガル王。中央集権化を進めて貴族を弾圧し、ブラガンサ公を滅ぼした。エンリケ航海王子の事業を継ぎ、1488年に喜望峰へ到達した。

生涯
1495年没
死亡地
ポルトガル共和国(ファーロ県 / アルヴォル)
出生地
ポルトガル共和国(サン・ジョルジェ城)
出典
世界地図
ポルトガル共和国(ファーロ県)

伝記

ジョアン2世は、1455年3月3日にリスボンで生まれたアヴィス王朝のポルトガル王である。父はアフォンソ5世、母は最初の王妃イザベル・デ・コインブラで、この母は彼がまだ生後数か月のうちに世を去った。「無欠王」と称される。王子として父のアフリカ遠征に従い、1471年8月のアルジーラ攻略の後、騎士に叙された。同年1月には従妹のレオノール・デ・ヴィゼウと結婚しており、1475年には長男アフォンソが生まれた。1474年に海外進出の政策を任され、翌1475年には摂政の地位に就いた。1477年には父の退位を受けて四日間だけ王位に就いたが、父が戻ると権力を返し、正式に王となったのは父が死去した1481年である。

即位後は、貴族から権力を奪って自らに集中させ、コルテスの援助を得て強力な中央集権化を進めた。若い頃から、外部の影響を受けず陰謀を軽んじる人物と見られて貴族に人気がなく、有力貴族は彼の統治を恐れていた。即位するとすぐに陰謀が続いたが、初めのうち王は静観していたという。ブラガンサ公とカトリック両王の間では不満の書簡や介入の要請が交わされ、1483年にはヴィラ・ヴィソーザの財務書記と使者が、両王との通信を王に差し出した。1483年には、国土の3分の1を支配し、カスティーリャ王国と内通していた又従兄のブラガンサ公フェルナンド2世を、二人きりで話した末にエヴォラで自ら逮捕した。裁判は22日にわたり、21人の裁判官の前で行われ、公は死刑を宣告されて、1483年6月20日にエヴォラの広場で斬首された。次いで、王妃の兄で従兄でもあるヴィゼウ公ディオゴも謀反に加わったとして、王が宮殿に呼んで自ら刺殺した。その後、ディオゴの弟でベージャ公のマヌエルを呼び、王が殺されそうになったためだと説明した。財政も立て直され、王は「法によって、群れによって」を標語としたという。

エンリケ航海王子のアフリカ西海岸開拓を継いで、1484年にコンゴ河口、1488年には喜望峰に到達した。インドへの海路を探すことを最優先とし、バルトロメウ・ディアスらの航海を命じ、最初の航海計画の骨格を描いたのも彼だった。クリストファー・コロンブスの航海事業には協力せず、大西洋開拓ではスペインに遅れをとった。もっとも、コロンブスの航海を受けて1494年にカトリック両王とトルデシリャス条約を結んでいる。

一方、後継問題には苦しんだ。唯一の嫡子アフォンソ王太子は、カスティーリャ=アラゴンの王女イサベルとエヴォラで1490年に結婚した。二人の間に生まれる子は、カスティーリャとアラゴンの王位も継ぐはずだった。しかし翌1491年に王太子が落馬事故で亡くなり、王太子妃は故国へ戻った。血を引く男子は庶子のジョルジェ(1481年-1550年)だけで、王妃レオノールに嫌われて後継者に指名できなかった。王はその後も庶子ジョルジェの嫡出化を試みたが、成功しなかった。結局、王妃の勧めに従い、彼女の弟で従弟にあたるベージャ公マヌエルを王太子に指名した。1495年10月25日、41歳でアルヴォルで没した。精力的で覇気に溢れた名君として高く評価されている。

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