HISTORICAL PERSON · 1972年没

マウリッツ・エッシャー

オランダの版画家。木版画やリトグラフを手がけ、建築不可能な構造物や無限を有限に閉じ込めた図、平面を変化するパターンで埋めた作品など、独創的な作品で知られる。

生涯
1972年没
死亡地
オランダ(北ホラント州 / ラーレン)
出生地
オランダ(レーワルデン)
出典
世界地図
オランダ(北ホラント州)

伝記

マウリッツ・コルネリス・エッシャーは、1898年6月17日にオランダ北部フリースラント州の州都レーワルデンで生まれ、1972年3月27日にバールンで没した版画家である。木版画、リトグラフ、メゾチントなどの版画で知られる。建築が不可能な構造物や、無限を有限の中に閉じ込めたもの、平面を次々と変化するパターンで埋め尽くしたものなど、非常に独創的な作品を作った。

土木工学者の父ジョージ・アーノルドと、その二番目の妻サラ・アドリアナの間に、五人兄弟の末っ子として生まれた。1903年に、一家はオランダ南部のアルンヘムへ移った。絵は早くから巧みだったが、学業成績はふるわず、中等学校では留年して2年生を2回やることになった。数学の素養に富む家系に生まれながら、例外的に数学が苦手だったという。両親は建築家になることを望んでおり、父のコネでデルフト工科大学に入ったが、最初の学年を修了できなかった。1919年9月、ハールレムの建築装飾美術学校の建築学科に入り直して学び始めたが、入学から1週間も経たないうちに、グラフィックアートの教師サミュエル・メスキータに作品を見せたところ、才能を見出され、グラフィックアート学科への転籍を勧められた。父は、息子が美術だけでは食べていけないのではないかと懸念したが、最後には進路変更を承諾した。1922年に卒業し、メスキータとの付き合いは長く続いた。ナチス・ドイツがメスキータの家族三人を連行すると、エッシャーは家に行き、作品を数枚かき集めて隠した。三人は強制収容所で殺害されたが、守った作品を生涯大切にした。

1924年に、旅行先のイタリアで出会ったイェッタ・ウミカーと結婚し、1926年に長男ジョージが生まれ、ローマに移り住んだ。1930年には風景画の最高傑作といわれる『カストロバルバ』を制作した。1935年に、長男が少年国粋党の制服の着用を義務づけられ、次男アーサーに結核の兆候が見つかったため、一家はスイスに移った。スイスの単調な風景のなかで、南の海に憧れ、乗船代金のかわりに、旅の途中で制作する版画を受け取ってくれないかと、船会社に提案した。当時は無名だったが、申し出は聞き入れられ、船賃として48枚の版画が制作された。この旅行で、グラナダのアルハンブラ宮殿のムーア人のモザイク模様に、深い感銘を受けた。

この旅以降、繰り返し模様の作品に挑戦し始めたが、最初の展覧会は不成功に終わり、いったん断念した。のちに再びアルハンブラ宮殿を訪れ、妻とともに宮殿の洗練された模様の膨大なスケッチをとった。結晶学者の兄から結晶学の雑誌を読むよう勧められ、平面を同じ図形で埋める方法を研究した。ジョージ・ポリアの論文に載っていた17種類の繰り返し模様は、大きな刺激となった。アルハンブラ宮殿の再訪以来、作風は一変し、同時代のどの作家にも見られない世界をつくった。1950年代に入ると、アメリカの二つの雑誌に紹介され、アメリカの若者の支持を急速に得た。『物見の塔』(1958年)、『上昇と下降』(1960年)、『滝』(1961年)などが、この時期に次々と生まれた。

1960年代後半から健康を損ない、1964年にアメリカへ講演に向かったが、カナダのトロントで入院して手術を受けた。以後、癌の手術を10回受けた。1968年には妻が別れを告げてスイスに戻った。1969年に遺作を制作し、最後の作品には蛇を描こうと、あらかじめ決めていたという。1970年からはバールンの芸術家のための養老院で、最後の2年間を送り、73歳で亡くなった。

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