伝記
ハーロー・シャプレーは、1885年11月2日にミズーリ州ナッシュヴィルの近くの農場で、ウィリスとサラの息子として生まれたアメリカ合衆国の天文学者である。天文学と並行して、アリの研究も行った。小学校より先には学校に通わず、家で独学したのち、カンザス州シャヌートの新聞で事件記者として働いた。町のカーネギー図書館を見つけて、本を読み勉強を始め、のちに6年制の高校の課程を1年半で終えて、首席で卒業した。1907年にミズーリ大学でジャーナリズムを学ぶつもりで進学したが、新設の学科の開設が1年延期されたため、科目一覧の最初のものを専攻することにした。考古学は発音できなかったと本人が語り、2番目の天文学を選んだ。
卒業後は奨学金でプリンストン大学の大学院に進み、ヘンリー・ノリス・ラッセルのもとで学んだ。ヘンリエッタ・スワン・リービットが見つけた周期と光度の関係を使って、球状星団までの距離を求めた。1914年には、セファイド変光星は1個の星が脈動することで変光するという「脈動説」を唱えた。この説は、のちにアーサー・エディントンらによって理論的に証明されて、定説となった。1918年には、リービットやヘルツシュプルングの先行研究をもとに、セファイド変光星の変光周期と光度の観測から球状星団までの距離を測る方法を考案した。数十個の球状星団の距離を決めて分布図を描き、太陽は銀河系の中心ではないというモデルを示した。銀河系は従来の考えよりはるかに大きく、太陽の位置は目立たない場所にあると、彼は気づいたのである。
1920年4月26日には、アメリカ国立科学院の講堂で、ヒーバー・カーチスと公開討論会「宇宙の大きさ」を行った。「大論争」あるいは「シャプレー・カーチス論争」と呼ばれる。シャプレーは、銀河系の大きさは直径約30万光年で、渦巻星雲は銀河系の内側にあるという説を立てた。対するカーチスは、銀河系の直径は約2万光年で、渦巻星雲は、我々の銀河系と同様の別の銀河だと主張した。決着はつかず、1924年にハッブルがアンドロメダ銀河の中にセファイド変光星を発見し、距離を計算するまで続いた。シャプレーは、銀河系のほかに銀河があるとするハッブルの観測を当初は強く批判していたが、ハッブルから、アンドロメダ銀河のセファイド変光星の光度曲線を示す手紙を受け取ると、批判を撤回した。同僚に「これは私の宇宙を破壊した手紙だ」と語ったという。当時はウィルソン山天文台に勤めていたが、討論の後、亡くなったピッカリングの後任として、ハーバード大学天文台の所長に迎えられた。
1921年から1952年まで同天文台の所長を務めた。この間、セシリア・ペインを採用している。1925年から1932年にかけて、銀河の分布の研究で大きく前進し、天文台とともに7万6千個の銀河の地図を作った。超銀河団の存在を最も早く信じた天文学者の一人で、のちに遠方の大きな例を見つけ、これはシャプレー超銀河団と名付けられた。1932年にはアデレード・エイムズとともに、13等級より明るい銀河1,249個の明るさ、大きさ、型などを載せたカタログを作成した。第二次世界大戦後は、ユネスコの設立に尽力した。1926年にヘンリー・ドレイパー・メダルを、1934年に王立天文学会ゴールドメダルを、1939年にブルース・メダルを受けた。1972年10月20日、コロラド州ボルダーで死去した。
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