伝記
ポール=アンリ・シャルル・スパークは、1899年1月25日、ベルギーのスカールベークで、劇作家で詩人のポール・スパークと、ベルギー初の女性上院議員となるマリ・ジャンソンの子として生まれた。母方の祖父ポール・ジャンソンはリベラル系の有力政治家で、伯父のポール=エミール・ジャンソンは首相を務めた。母のマリ自身は社会主義者であった。第一次世界大戦のドイツ軍侵攻の際、年齢を偽って陸軍に入隊しようとして捕らえられ、2年間をドイツで捕虜として過ごした。戦後はブリュッセル自由大学で法学を学び、テニスの名手でもあって、1922年にはベルギー代表としてデビスカップに出た。学位を得たのち弁護士となり、共産主義者や、イタリアの皇太子の暗殺を謀ったフェルナンド・デ・ロサらの弁護を担当した。
1920年に社会主義系のベルギー労働党に入党し、1932年に代議院議員となった。1935年にポール・ヴァン・ゼーラント政権で運輸相として入閣し、1936年2月には外相となった。1938年5月から1939年2月まで首相を務めた。1939年9月から1949年8月までは、3人の首相のもとで外相を務めた。1946年3月には、13日から31日までのベルギー史上最短の政権を担当し、1947年3月から1949年8月までも首相を務めた。第二次世界大戦までは、ベルギーの「独立方針」を唱えていた。1940年5月のドイツによる占領のとき、外相だったスパークはフランスに逃れ、帰国をドイツに阻まれて、イギリスに滞在した。ロンドンでは、ベルギー、オランダ、ルクセンブルクの関税同盟を作ろうと働きかけた。戦後は国際的な評価が高まり、1945年に国際連合総会の初代議長に選ばれた。
1944年以降は、地域協力や集団安全保障に傾倒していった。1949年8月に欧州評議会の議員会議の初代議長に選ばれ、1952年から欧州石炭鉄鋼共同体の共同総会の議長も務めた。1955年にヨーロッパ各国首脳によるメッシーナ会議で、単一の欧州市場について検討する委員会の委員長に指名された。この委員会の報告書は、1956年の政府間協議の土台となり、1957年3月25日の二つのローマ条約、すなわち欧州経済共同体と欧州原子力共同体を設立する条約の署名に至った。スパークはベルギーを代表して両条約に署名した。これらの功績から欧州連合の父に数えられ、1957年にはアーヘン市からカール大帝賞を贈られた。1962年には「明日のヨーロッパは超国家的なヨーロッパでなければならない」と宣言している。2000年に公開されたアメリカの機密文書によると、スパークはアメリカの諜報部の資金を得て、ヨーロッパ統合の過程を進めてきたとされる。1956年にはイスメイの後任として北大西洋条約機構の事務総長に選ばれ、1957年から1961年まで務め、機構本部の所在地がブリュッセルに決まる際には決定的な役割を果たした。
1966年に政界から退き、ベルギー王立フランス語文学アカデミーの会員となって、1969年には2巻の回想録を出版した。1972年7月31日、ブリュッセル近郊のブレーヌ・ラリュートで73歳で死去した。1921年にマルグリッテ・マレヴェズと結婚して、フランス語圏民主戦線を率いた娘アントワネットと、外交官の息子フェルナンらをもうけた。1964年8月に妻と死別したのち、1965年4月にシモーヌ・デアールと再婚した。姪に女優のカトリーヌ・スパークがいる。
同じ年に亡くなった人物
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- ウェズリー・ラッグルズ (1972年没)
- ウォルター・フリーマン (1972年没)
- セミョーン・キルサノフ (1972年没)
- ルドルフ・フリムル (1972年没)
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- スール・スーリール (1985年没)
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