伝記
マックス・タイラーは一八九九年、トランスヴァール共和国のプレトリアに生まれた。父アーノルドはスイス出身の獣医学者であった。プレトリア男子高校、ローズ大学を経てケープタウン大学医学部に進み、一九一八年に卒業した。さらに医学研究を続けるため南アフリカを離れてロンドンへ移り、セント・トーマス病院医学部、キングス・カレッジ・ロンドン、ロンドン大学衛生熱帯医学大学院で熱帯医学と衛生学を修めた。一九二二年に課程を終えると、ロンドンの王立内科医大学の資格を得て、さらに王立外科医大学の会員となった。同年、研究を志してアメリカへ渡り、ハーバード大学熱帯医学部の職員となった。
ハーバードではアメーバ性赤痢の研究や、鼠咬症に対するワクチン開発に取り組んだ。アンドリュー・セラーズの助手として黄熱の研究を始め、一九二六年には黄熱の原因を細菌とする野口英世らの説に異を唱えた。翌年、黄熱の原因がウイルスと確認されると、研究班はアフリカや南米のウイルス株と、インドのアカゲザルから分離された株を比較した。一九二八年には、それらの免疫学的な性質を調べた。この研究の最中にタイラー自身も黄熱に感染したが、回復し、免疫を得た。
一九三〇年、ニューヨークのロックフェラー財団へ移り、後に同財団のウイルス研究所長となった。彼は実験用マウスを通じて黄熱ウイルスを継代し、弱毒化したウイルスがアカゲザルに免疫を与えることを見いだした。ワクチン候補の有効性を試す方法も考案し、接種した人の血清をマウスに注入して黄熱ウイルスから守られるかを調べた。このマウス防御試験は、第二次世界大戦後まで免疫の測定に使われた。西アフリカ由来の強毒なアシビ株をニワトリの胚で百回以上継代する作業を、ヒュー・スミスらと進め、一九三七年に弱毒化した十七D株を得た。この株を用いたワクチンは動物実験で安全性と免疫効果が確認され、財団は南米で人への試験も始めた。一九四〇年から一九四七年にかけて財団は二千八百万回分を超えるワクチンを製造し、黄熱は大規模な疾病ではなくなっていった。タイラーはマウスの麻痺を起こす別のウイルスも見いだした。このウイルスはアカゲザルには感染せず、一部のマウスに症状を起こす。後に彼の名で呼ばれ、多発性硬化症研究の標準的なモデルとなった。
この黄熱ワクチン開発により、一九五一年度のノーベル生理学・医学賞を受賞した。アフリカ生まれのノーベル賞受賞者としては初とされた。ほかに一九三九年のチャルマーズ・メダル、一九四五年のフラッタリー・メダル、一九四九年のラスカー賞も受けている。一九六四年から一九六七年まではイェール大学医学部と公衆衛生大学院で疫学・公衆衛生学の教授を務めた。著書にも関わり、一九四八年には『人のウイルス・リケッチア感染症』、一九五一年には『黄熱』が刊行された。『脊椎動物の節足動物媒介ウイルス』はロックフェラー財団のウイルス計画を扱う共著で、死後の一九七三年に出版された。熱帯医学の専門誌にも論文を発表した。一九二八年にリリアン・グラハムと結婚し、娘を一人もうけた。アメリカへ移住してからも帰化せず、一九七二年八月十一日にコネティカット州ニューヘイブンで死去した。
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