HISTORICAL PERSON · 1972年没

レスター・B・ピアソン

カナダの第14代首相。第二次中東戦争で国連緊急軍の創設を提唱した功績により、1957年にノーベル平和賞を受賞した。

生涯
1972年没
死亡地
カナダ(オンタリオ州 / オタワ)
出生地
カナダ(トロント)
出典
世界地図
カナダ(オンタリオ州)

伝記

レスター・ボールズ・ピアソンは、1897年4月23日にカナダのオンタリオ州ニュートンブルックで生まれた政治家、外交官で、第14代カナダ首相を務めた。父エドウィンはメソジスト派の牧師で、一家はトロント北方のオーロラに移った。1913年に16歳でハミルトンの学校を卒業し、同年トロント大学ヴィクトリア・カレッジに入って、弟と同じ部屋で寮生活を送った。歴史学や心理学で優れた成績を収め、運動競技でも知られ、ラグビー、バスケットボール、野球、ラクロス、アイスホッケーなどを楽しんだ。ラグビーでは「無敵のクォーターバック」と呼ばれ、1917年の夏にはセミプロの野球チームでも稼いだ。

第一次世界大戦が始まると、大学の病院部隊の衛生兵として志願し、1915年から2年間、ギリシャの陸軍病院で勤務した。1917年にイギリス空軍に志願して飛行訓練学校に通ったが、卒業後の最初の飛行で墜落事故に遭い、続いてロンドンの大停電の最中にバスにはねられた。幸いに生き延びたが、これが原因で傷病兵として1918年にカナダへ送還された。翌1919年にトロント大学を卒業し、奨学金でイギリスのオックスフォード大学に学んだ。オックスフォードではアイスホッケー部に加わり、1923年に第1回スペングラー杯で優勝したチームの一員となった。1925年にカナダに戻ると、トロント大学で歴史を教えながら研究を続けた。

1927年にカナダ外務省に入り、外交官としての道を歩んだ。1944年からは在米カナダ大使を務め、1945年には国際連合の設立会議に出席した。副外相として北大西洋条約機構の設立にも重要な役割を担った。1948年に政界に入って外務大臣となり、1957年まで務めた。1952年から1953年には国連総会の議長を務めた。1956年の第二次中東戦争では、外相として国連緊急軍の創設を提唱し、現代的な平和維持活動の元となった。この紛争の解決にあたった功績が評価され、1957年にノーベル平和賞を受賞した。

自由党は1957年の総選挙で敗れ、翌1958年にピアソンが党首となった。1958年と1962年の総選挙ではディーフェンベーカーに連敗したが、1963年の総選挙で少数与党政権を勝ち取り、同年4月22日に首相に就任した。1965年の総選挙でも少数与党となった。1968年4月20日までの在任中に、カナダ年金制度、連邦政府と州政府が医療費を折半する制度、学生ローン制度を導入し、メープルリーフの新しい国旗を制定した。農村部の経済発展のための基金も創設された。1967年には建国100周年の式典を主宰した。

しかしその和平志向は、友好国の首脳との間に軋轢も生んだ。1965年4月2日、フィラデルフィアのテンプル大学で、ベトナム戦争を終わらせるには北爆の停止が必要だと演説した。翌日のキャンプ・デービッドでの首脳会談で、ジョンソン大統領は演説に激怒し、ピアソンの襟首をつかんで罵ったと伝えられている。1967年7月24日、モントリオールを訪れたフランスのド・ゴール大統領が演説で「自由ケベック万歳」と叫ぶと、ピアソンは翌日の演説で、カナダ人は解放される必要はないと強く非難した。1968年に首相を辞して政界を退き、1972年12月27日に没した。トロントの空港は、1984年に彼にちなんで改称された。

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