HISTORICAL PERSON · 1972年没

葉問

香港の中国武術家で、詠春拳葉問派の宗師。11歳で詠春拳に入門し、高額な月謝を払って個人教授を受けた。

生涯
1972年没
死亡地
イギリス連邦(中西区 / イギリス領香港)
出生地
中華人民共和国(仏山市)
出典
世界地図
イギリス連邦(中西区)

伝記

葉問(ようもん、広東語読みでイップ・マン)は、1893年10月1日に広東省南海県の仏山で生まれた中国武術家で、詠春拳葉問派の宗師である。本名は葉継問という。葉一族は仏山で桑畑や綿花畑、製糸工場などを経営する裕福な家で、彼は次男として生まれ、兄と姉、妹がいた。1904年、11歳のとき、葉家の祖師堂に師の陳華順を呼び、個人教授を受けて詠春拳に入門した。師は54歳で、葉問は最晩年の弟子であった。米60キロが銀1両半で買えた時代に、月額銀8両という高額な月謝を支払っていたという。陳華順が亡くなったのちも、「葉問が最後まで詠春拳を修行できるように」という遺言により、兄弟子の呉仲素が面倒を見て、修行は続けられた。1909年、16歳で香港へ留学し、赤柱にある聖士提反書院で科学や外国語、数学を学んだ。留学中は稽古を中断せざるを得なかったが、詠春拳の基本の型を制定したといわれる人物の実子と出会って稽古を続ける機会を得た。1918年に仏山へ戻り、警察官の職に就き、張永成と結婚して7人の子をもうけたが、3人は幼くして亡くなった。

1937年7月に日中戦争が始まり、1938年10月に日本軍が広東省一帯を占領すると、葉家の邸宅は日本軍の司令部として接収され、45歳の葉問は家族とともに仏山を離れた。1941年、48歳のときに、友人の息子の周雨耕ら7人に初めて詠春拳を教えた。生活は困窮し、弟子たちに、詠春拳を日本人には教えるなと言い聞かせたという。戦時中の経歴は明らかでなく、国民政府に協力して密偵をしていたともいわれるが、真偽は不明である。日本の敗戦後は、国民党政権のもとで警察の要職を歴任したが、1949年に国共内戦が激しくなり、共産党が政権を握ると、身の危険を感じて身分証の名を「葉溢」に変え、妻子を残してマカオ経由で香港へ逃れた。

香港での生活は困窮を極め、生活のために詠春拳を教えようと、友人知人を訪ね歩いた。1950年5月、留学時代からの友人の計らいで、梁相が書記長を務める職工総会で最初の稽古を始め、参加者は16名だったが、脱落者が多く、最後まで残ったのは、のちに「標指王」と呼ばれた梁相と「尋橋王」と呼ばれた駱耀の2人だけだった。葉問は、学生時代に培った現代科学の合理的な考え方に基づく教え方を採用することにした。気や陰陽五行のような形而上学を離れ、理解しやすく論理的な指導を実践したのである。梁相、駱耀、徐尚田らは「詠春四大天王」と呼ばれ、普及に寄与して、葉問派は香港で一大門派となった。1953年には13歳のブルース・リーが入門し、5年間修業した。1951年元日から大陸と香港の国境が封鎖されたため、家族とは会えなくなった。1960年に妻が仏山で病死し、1962年に長男の葉準と次男の葉正が香港へ密航して再会し、葉問は息子たちに詠春拳を教え始めた。

1964年には九龍の一室を終の棲家と決め、武館を閉じて個人教授だけを受け付けた。1968年に、葉問派の統括団体である詠春聯誼会を設立し、これは香港の武術団体として初めて、香港政府から認可を受けた。1972年12月1日、九龍の自宅で亡くなった。享年79であった。粉嶺の蝴蝶山に埋葬された。亡くなる1か月前には、套路と木人樁法を撮影した短いフィルムを残している。2002年には故郷の仏山に博物館が建てられた。

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