伝記
バルトロメウ・ディアスは、1450年頃に生まれ、1500年5月29日に没したポルトガルの航海者である。ヨーロッパ人として初めてアフリカ南端を回り、大西洋からインド洋へ出たことで知られ、その航海は帆船航海史上の重要な出来事の一つとされる。家族についてわかっていることは少なく、父と祖父がともにエンリケ航海王子に仕えた冒険航海者だったとする説明もあれば、1340年代に北アフリカ沿岸へ航海した縁者ディニス・ディアスがいたとし、ユダヤ系の出自をもつとする説明もあって、はっきりしない。兄弟にディオゴ・ディアスがいた。若いころにはリスボン大学で数学と天文学を学び、ギニア湾のサン・ジョルジェ・ダ・ミナ要塞で勤務したともいわれる。
1481年に航海者ディオゴ・デ・アザンブジャの黄金海岸遠征に同行し、その後は王宮の騎士、王室貯蔵庫の管理者となり、軍艦サン・クリストヴァンの航海長も務めた。1486年、ジョアン2世は、アジアへ至る交易路を確立するためのアフリカ周回航海の遠征隊長に、ディアスを任命した。公の目的の一つは、エチオピア方面にいるといわれるキリスト教徒の王プレステ・ジョアンの国を探し、友好関係を結ぶことであった。1487年8月ごろ、50トン級の武装キャラベル船2隻と補給艦1隻を率い、リスボンを出港した。兄弟のペロ・ディアスが補給艦を指揮し、2人の黒人男性と4人の黒人女性が、到着後に遠征の目的を現地に説明する役として同行した。
艦隊はまず、前年にディオゴ・カンとマルティン・ベハイムが発見したコンゴ川の河口へ向かい、海岸沿いに南下して、現在のナミビアにあるウォルビスベイに入った。1488年、南緯29度、現在の南アフリカ共和国のポート・ノロス付近で、嵐に遭って13日間漂流した。嵐が過ぎて陸地から離れたことに気づくと、陸地に近づくために東へ進んだが陸地に届かず、北上したところ陸地が西側に現れた。気づかないうちにアフリカ南端を通り過ぎていたのである。2月3日にモッセル湾へ上陸し、これをもって「ディアスのアフリカ南端到達」とする。さらにグレート・フィッシュ川まで進んだが、このまま行けばインドへ達することがはっきりした段階で引き返した。乗組員の不満を抑えきれなくなった妥協の結果と言われている。帰路の1488年5月に喜望峰を発見した。
1488年12月、およそ16か月17日、約2030キロに及ぶ航海を終えてリスボンに帰港し、ジョアン2世に成果を報告した。ディアスは苦難の航程から当初は「嵐の岬」と報告したが、東方への道が開けたことを喜んだ王が「喜望峰」に改めさせたという。1497年のヴァスコ・ダ・ガマのインド航海では、従属的な立場で水先案内人として艦隊に参加し、ヴェルデ岬まで同行した。1500年にはペドロ・アルヴァレス・カブラルのブラジル探検隊に加わり、ブラジル発見に立ち会ったが、帰途の海難事故で亡くなった。その功績は、喜望峰の発見というより、ヨーロッパ人として初めてアフリカ南端に到達し、インドへの道筋を確実に標したことにあるとされる。これによってヨーロッパ人は、中東のアラブ商人を介さずにインドやアジアと直接交易できるようになった。1993年発行の2000エスクード紙幣には、肖像が印刷されていた。
同じ年に亡くなった人物
- アルフォンソ・ダラゴーナ (ビシェーリエ公) (1500年)
- エドムンド・テューダー (1500年)
- ガストン2世・ド・フォワ (カンダル伯) (1500年)
- ペロ・ヴァス・デ・カミーニャ (1500年)
- John Morton (1500年没)
同じ地域に関係する人物
- テオフィラス・エベンハェゼル・デンゲス (1968年没)
- オベ・アンダーソン (2008年没)
- Raymond Robinson (2018年没)
- イアン・スミス (2007年没)
- ヴィルヘルム・ブリァク (1875年没)