HISTORICAL PERSON · 1973年没

ヨハネス・ハンス・イェンゼン

ドイツの物理学者。原子核の殻模型を提案し、スピン・軌道力の導入で安定な原子核の核子数(魔法数)を説明して、1963年にゲッパート=メイヤーとノーベル物理学賞を受賞した。

生涯
1973年没
死亡地
ドイツ連邦共和国(バーデン=ヴュルテンベルク州 / ハイデルベルク)
出生地
ドイツ連邦共和国(ハンブルク)
出典
世界地図
ドイツ連邦共和国(バーデン=ヴュルテンベルク州)

伝記

ヨハネス・ハンス・イェンゼンは一九〇七年六月二十五日、ドイツのハンブルクに生まれた。一九二六年から一九三一年にかけてフライブルク大学とハンブルク大学で物理学、数学、物理化学、哲学を学び、一九三二年にハンブルク大学で博士号を得た。一九三六年には同大学で教授資格を取得し、翌年から講師を務めた。大学で教えるかたわら、物理化学部門の責任者パウル・ハルテックと研究し、一九三九年に軍の管理下で始まったドイツの原子力計画、いわゆるウラン・クラブに加わった。彼の主な課題はウラン同位体の分離であり、ハルテックとともに揺動方式を用いる二重遠心分離機を開発して分離効果を高めようとした。研究は戦時下の原子力計画の一部を成していた。ハルテックは陸軍兵器局で爆発物に関する助言もしており、助手のヴィルヘルム・グロートとともに一九三九年四月二十四日、帝国戦争省に核連鎖反応の軍事利用の可能性を伝えていた。計画の軍事管理は一九三九年九月一日に始まった。

一九四一年、ハノーファー工業学校の理論物理学教授に任命された。戦後の一九四九年にはハイデルベルク大学の教授となり、一九六九年の退職までその職にあった。同年、シカゴ大学のマリア・ゲッパート=メイヤーとは独立に、原子核の殻模型を提案した。原子核を液滴に見立てる液滴模型では、陽子と中性子の数によって安定性が異なることを十分に説明できなかった。殻模型は、陽子や中性子が一定のまとまりを作る構造に注目し、各核子の運動にスピンと軌道の相互作用を取り入れて、特に安定する核子数である魔法数を説明した。

一九四七年にはハンブルク大学の名誉教授となった。イェンゼンは研究と並行して大学で教え、戦後には米国の複数の大学や研究機関で客員教授も務めた。一九五一年にウィスコンシン大学マディソン校、一九五二年に高等研究所とカリフォルニア大学バークレー校、一九五三年にインディアナ大学とカリフォルニア工科大学で教え、一九五六年にはミネソタ大学、一九六一年にはカリフォルニア大学サンディエゴ校でも客員教授を務めた。一九三六年にハンブルク大学で教授資格を得た時点で、国家社会主義系の大学講師団体に三年、教員団体に二年所属し、国家社会主義ドイツ労働者党の党員候補でもあった。翌年にはその党員となった。戦後の非ナチ化手続きでは、物理学者ヴェルナー・ハイゼンベルクが彼のために証明書を作成した。ハイゼンベルクは党員になったことがなく、党や親衛隊と公然と衝突した人物で、証明書の書き手として影響力があった。そのハイゼンベルクは、イェンゼンが大学で不必要な困難を避けるために党組織へ加わったのだと当局を説得した。教授資格取得の際、大学側は党組織への積極的な参加を求め、イェンゼンもそれに応じたと資料に記されている。

一九六三年、イェンゼンはゲッパート=メイヤーとともにノーベル物理学賞を受賞した。二人は原子核の殻構造に関する発見で賞の半分を分け、残る半分は別の研究によりユージン・ウィグナーに授与された。一九六九年にはハイデルベルク大学を退職した。理論物理学者として教職、戦時研究、原子核構造の研究に携わった生涯の後、一九七三年二月十一日に六十五歳でハイデルベルクに没した。

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