HISTORICAL PERSON · 1973年没

W・H・オーデン

イギリス出身でアメリカに移住した詩人。20世紀最大の詩人の一人とみなされ、北欧神話や精神分析への関心が作品に影響した。

生涯
1973年没
死亡地
オーストリア共和国(ウィーン)
出生地
イギリス連邦(ヨーク)
出典
世界地図
オーストリア共和国(ウィーン)

伝記

ウィスタン・ヒュー・オーデンは一九〇七年、イングランドのヨークに生まれた。父は医師で公衆衛生学を教え、母は海外勤務に備えた看護婦の訓練を受けたが、実際の赴任経験はなかった。三人兄弟の末子として育ち、次兄は地理学者になったとされる(地質学者とする資料もある)。父方と母方の祖父はいずれも聖公会の聖職者だった。幼い頃から教会の奉仕活動によく参加し、後年、その経験が音楽や言葉への偏愛に影響したところがあるだろうと回想している。寄宿学校に通い、十三歳でノーフォークの学校へ移った。友人に詩を作るかどうか尋ねられたのをきっかけに、一九二二年に詩作への適性を自覚し、この直後から自分が信仰を失っていることにも気づいた。一九二三年には校内雑誌に作品が掲載された。オックスフォード大学のクライスト・チャーチには生物学の奨学金で入り、二年目に英語専攻へ移った。学生時代に詩人セシル・デイ=ルイスやスティーヴン・スペンダーと親交を結び、作家クリストファー・イシャウッドから作品への助言を受けた。学校では一九二二年に『じゃじゃ馬ならし』のカタリーナを演じ、最終学年には『テンペスト』のキャリバンを演じた。

一九二八年、オーデンは九か月間ベルリンに滞在し、政治や経済の不安を身近に経験した。当時のベルリンでは同性愛への抑圧がロンドンより弱く、渡航には英国社会の抑圧に抗う意味もあった。帰国後は短期間家庭教師をし、一九三〇年から五年間は学校で教えた。一九三〇年には、詩集が詩人のT・S・エリオットに認められ、フェイバー社から刊行された。オーデンの作品は社会や政治の緊張、個人の愛情、宗教や道徳などを扱い、形式や調子も多様だった。一九三〇年代にはマルクス主義から離れ、キリスト教への関心を取り戻した。詩では簡潔な現代的な文体と、流麗な伝統形式の双方を用いた。一九三五年、ドイツの作家トーマス・マンの娘エリカと名目上の結婚をした。彼女が英国籍を取得し、ナチス政権下のドイツを離れることを助けるためだった。一九三六年には彼女に捧げる詩を書いた。一九三七年にはスペイン内戦の共和国側を支援するため現地へ赴き、帰国後に医療支援の資金を集める詩『スペイン』を書いた。一九三八年にはイシャウッドと中国へ渡り、日中戦争のさなかに中華民国軍の支配地域を訪問した。

一九三九年に米国へ移住し、一九四六年に米国籍を得た。ナチス・ドイツがポーランドへ侵攻した日付を題にした詩「一九三九年九月一日」は、戦争の始まりに書かれた作品として知られる。米国同時多発テロの後にも、社会の不安や人々の状況を表す詩として注目を集め、広く読まれた。オーデンは詩作だけでなく、評論も手がけ、シェイクスピアをはじめとする作家や音楽家について論じた。生涯に約四百編の詩を発表し、そのうち七編は長詩だったとされる。

詩人としてボリンゲン賞と全米図書賞を受賞した。一九六八年のノーベル文学賞選考では最終候補の一人となっていたことが、選考資料の公開で後に明らかになった。二十世紀最大の詩人の一人とみなされ、英語圏ではイェイツやT・S・エリオットと並び称される。日本語訳も多数刊行された。一九七三年九月二十九日、ウィーンで六十六歳で没した。

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