HISTORICAL PERSON · 1973年没

イワン・コーネフ

ソ連邦元帥。ジューコフとベルリン一番乗りを競い、ソ連邦英雄に2度叙された。貧しい農家に生まれ、赤軍で昇進した。

生涯
1973年没
死亡地
ロシア連邦(モスクワ)
出生地
ロシア連邦(Lodeyno)
出典
世界地図
ロシア連邦(モスクワ)

伝記

イワン・コーネフは一八九七年、ロシア帝国ヴォログダ県の農家に生まれた。家の暮らし向きについては、貧しかったとも裕福な農家だったとも記される。地元の学校で学んだ後、十五歳からは林業労働者として働き、木材を川に流す人々の勤務を管理する仕事もした。一九一六年に帝国陸軍へ召集され、砲兵の訓練を受けて第一次世界大戦にも従軍した。一九一七年末にいったん軍を離れて村に戻ったが、翌年にボリシェヴィキ党へ加わり、郡執行委員や軍事委員となった。同年七月にはモスクワでのソヴィエト大会に代議員として出席し、左派社会革命党の蜂起の際には赤衛隊の分遣隊を率いて広場の制圧を命じられた。その後、赤軍へ入隊し、ロシア内戦では装甲列車や旅団、狙撃師団などで軍事委員を務めた。白軍のコルチャークやセミョーノフの部隊、日本軍との戦闘にも参加した。内戦中の一九一九年の秋からは、装甲列車「グローズヌイ」の軍事委員も務めたとされる。一九二一年には共産党大会の代表となり、クロンシュタットの反乱鎮圧にも参加している。

一九二六年、フルンゼ軍事アカデミーの高等指揮要員課程を修了し、狙撃連隊長となった。一九三四年には特別課程を終え、その後は狙撃師団長、軍団長、極東の軍司令官を歴任した。一九四〇年からはザバイカル軍管区と北カフカーズ軍管区を指揮した。独ソ戦が始まると、第十九軍をはじめ複数の軍や戦線の司令官として前線に立ち、モスクワの戦いやクルスクの戦いに加わった。

一九四一年のヴャジマ攻防戦で敗北すると、国防委員会、とくにヴォロシーロフの不興を買い、軍法会議にかけられる可能性があった。ちょうどレニングラード戦線から転任してきたゲオルギー・ジューコフが救い、コーネフはカリーニン戦線の司令官にとどまった。その後はジューコフの補佐役も務め、ウクライナの解放、東カルパチア、ヴィスワ・オーデル作戦などを指揮した。一九四四年にソ連邦元帥となり、二度のソ連邦英雄にも選ばれた。チェコスロバキア社会主義共和国とドイツ民主共和国からも英雄称号を受けた。プラハ作戦では、蜂起後の首都に最初に入った連合軍の指揮官とされる。戦争末期には第一ウクライナ戦線を率いてベルリンの戦いとプラハ作戦に参加し、ジューコフとベルリンに先着する競争を繰り広げた。

終戦後は中央軍集団の総司令官とオーストリア駐留ソ連軍の最高委員を兼ねた。一九四六年から一九五〇年まで地上軍総司令官と国防次官を務め、一九五〇年からはソビエト軍主任監察官、一九五一年からは沿カルパチア軍管区司令官を務めた。一九五五年には国防第一次官兼地上軍総司令官となり、ワルシャワ条約機構の統合軍総司令官も兼任した。一九五六年のハンガリー動乱では、条約機構軍による鎮圧を指揮した。一九六〇年から翌年には国防省の主任監察官を務め、一九六一年には駐独ソビエト軍集団の総司令官となり、ベルリンの壁建設に伴う東西ベルリン間の封鎖にも関わった。一九六二年からは国防省の監察総監主任監察官を務めた。党では一九五二年から死去まで中央委員を務めた。レーニン勲章六個、赤旗勲章三個、勝利勲章など、国内外から多くの勲章を受けた。一九七三年五月、モスクワで七十五歳で死去し、赤の広場のクレムリンの壁に葬られた。

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