伝記
パブロ・ネルーダは一九〇四年、チリのパラルに生まれた。本名はリカルド・エリエセール・ネフタリ・レジェス・バソアルトで、バスク系チリ人の家庭に育った。父は鉄道員、母は教師だったが、母は彼が生まれて間もなく亡くなり、父の再婚後は継母のもとで育った。十三歳で地元紙に文章を発表し、十代から詩人として活動した。父は文学への関心に反対したが、地元学校の校長を務めていたガブリエラ・ミストラルらの励ましを受けた。一九一九年には詩の競技会で三位となった。一九二〇年に筆名として「パブロ・ネルーダ」を用いるようになった。名はチェコの詩人ヤン・ネルダに由来するとされ、後にはその名を本名とした。一九二一年にサンティアゴへ移り、教師を目指してフランス語を学ぶ一方、詩作に力を注いだ。一九二四年刊の『二十の愛の詩と一つの絶望の歌』は、若い頃の代表作の一つとなった。
外交官として一九三四年にスペインへ赴任し、スペイン内戦を目の当たりにした。人民戦線とスペイン共和国を支援し、共産主義に接近した。一九四五年にはチリ上院議員に当選するとともにチリ共産党に入党したが、一九四八年にビデラ政権が共産党を非合法化すると、逮捕を避けて国外へ逃れた。友人たちにかくまわれた後、山越えでアルゼンチンへ脱出し、三年以上チリに戻らなかった。亡命生活を題材にした映画も後に作られている。共産党は一九五八年に再び合法化された。
帰国後も外交と政治、詩作を続けた。一九六二年にモスクワを訪れた際、パキスタンの詩人ファイズ・アハマド・ファイズと出会い、以後も交流した。一九七〇年の大統領選挙では一時、共産党の候補に推されたが辞退し、社会党のサルバドール・アジェンデが左派統一候補として立候補して当選した。アジェンデ政権の発足後、駐仏大使に任命され、在任中の一九七一年にノーベル文学賞を受けた。ガブリエル・ガルシア=マルケスは「どの言語の中でも二十世紀の最高の詩人」と称えた。作品にはチリの自然を詠んだ『マチュピチュの高み』や、愛を主題とした詩集がある。
癌を患っていたため、一九七二年に駐仏大使を辞任してチリへ戻った。翌年九月十一日、ピノチェト将軍率いる軍がクーデターを起こすと、兵士が彼の家に押し入り、家具を壊し蔵書を破るなどした。病状が悪化し、九月二十三日に危篤となって病院へ運ばれた。軍の検問で救急車が止められ、病院への到着が遅れたという。公式には前立腺癌の合併症による死とされたが、元運転手の証言を基にチリ共産党は二〇一一年に毒殺の疑いで告訴し、軍部が反クーデター活動を阻止するため毒殺したとの見解を示した。二〇一三年の調査では毒物が検出されなかった一方、二〇二三年には歯からボツリヌス菌が確認されたとの報告があり、二〇二四年に控訴裁判所が公式捜査を再開した。死因をめぐる疑いは続いている。
彼は詩作に加え、外交官や上院議員として国の政治にも関わった。詩の形式は恋愛詩から歴史叙事詩、政治的な宣言、自伝的な散文まで幅広く、ベトナム戦争をめぐる米国の行動を批判する作品も書いた。生涯に二度離婚し、最後の妻には『百の愛のソネット』を贈った。南米では詩の朗読会が頻繁に開かれ、ネルーダの家やイスラ・ネグラの別荘も観光地となっている。チリの国民的詩人として知られる。
同じ年に亡くなった人物
- アブドッラフマーン・アル=バッザーズ (1973年没)
- アベベ・ビキラ (1973年没)
- Nasif Estefano (1973年没)
- ペギー・キャッスル (1973年没)
- フアード・シハーブ (1973年没)
同じ地域に関係する人物
- Juan Francisco Fresno (2004年没)
- Raul Silva Henriquez (1999年没)
- ホルヘ・アルトゥーロ・メディナ・エステヴェス (2021年没)
- パトリシオ・エイルウィン (2016年没)
- エンリケ・オルマサバル (1999年没)