伝記
パール・バックは本名をパール・コンフォート・サイデンストリッカーといい、一八九二年六月、米国ウェストバージニア州に生まれた。南長老派教会の宣教師だった父アブサロームと母キャロラインに伴われ、生後三か月で中国江蘇省の鎮江へ渡った。英語と中国語の両方を身につけ、幼い頃は自分を中国人だと思っていたという。七人きょうだいのうち四人が幼少期に病気で亡くなった。後年、出自は米国にありながら、同情と感覚においては中国人だと語っている。
一九一一年、大学教育を受けるため米国へ戻り、ランドルフ・メイコン女子大学で学んだ。卒業後、母の病気を知って宣教師として中国へ戻り、一九一七年に農業経済学者で宣教師でもあったジョン・ロッシング・バックと結婚した。南京大学などで英文学を教え、一九二六年には一時帰国してコーネル大学の修士号を得た。一九二七年の南京事件に遭遇し、日本の雲仙に一時避難した後、中国に戻って本格的に執筆を始めた。一九三〇年に最初の小説『東の風・西の風』を発表し、翌年には『大地』を刊行した。
『大地』は広く読まれ、一九三二年にピュリッツァー賞を受けた。『息子たち』『分裂せる家』と合わせて三部作を成す作品として知られる。同じ年、ニューヨークでの講演をめぐって長老派の伝道委員会から批判を受け、宣教師の地位を辞した。一九三四年に中国を離れ、以後その地には戻らなかった。一九三五年にジョンと離婚し、出版エージェントのリチャード・ウォルシュと再婚した。一九三八年、『大地』の業績によりノーベル文学賞を受賞した。これはスウェーデンの探検家スヴェン・ヘディンの推薦によるものだった。『息子たち』は一九三二年、『分裂せる家』は一九三五年に刊行された。ほかにも『母』『第一夫人』『この心の誇り』『ドラゴン・シード』『北京からの便り』『生きている葦』などの小説を発表した。『母の肖像』や『戦う天使』などのノンフィクションも書き、小説とノンフィクションのほか、児童書や絵本も執筆した。
児童書には『水牛飼いの子供たち』や『つなみ』がある。一九六〇年には『つなみ』の映画化に関わる撮影のため来日したが、夫の死の報せで一時帰国し、再び日本を訪れて十二月まで滞在した。『私の見た日本人』『私の見た中国』では、日本と中国をそれぞれ主題に扱った。二〇一三年に発見された『終わりなき探求』は遺作とされる。最初の夫との間には知的障害のある娘キャロルがいた。自身が子どもを産めない身体になった後、六人の孤児を養子に迎えた。リチャードとともに、人種を問わない養子仲介機関ウェルカム・ハウスを設立し、リチャードの死後には娘たちのダンス教師だったセオドア・ハリスと再婚した。二人は米国人とアジア人の混血で寄る辺のない子どもたちを教育するため、パール・バック財団も設立した。セオドアとは一九七〇年に離婚し、晩年はバーモント州で暮らした。娘キャロルは一九九二年、入所先の施設で七十二歳で亡くなった。障害のある子の母としての思いは『母よ嘆くなかれ』につづられた。広島で平和活動を行った谷本清を支援するなど、著作以外の活動にも取り組み、一九七三年三月、八十歳で亡くなった。
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