伝記
インゲボルク・バッハマンは一九二六年、オーストリア南部ケルンテン州のクラーゲンフルトに生まれた。父マティアスは学校教師で、オーストリアの国家社会主義党の初期の党員だった。妹イゾルデと弟ハインツがいた。インスブルック、グラーツ、ウィーンの大学で哲学、心理学、文献学、法学を学び、一九四九年にウィーン大学で哲学の博士号を得た。学位論文ではマルティン・ハイデッガーの実存哲学を批判的に検討した。卒業後は連合国側のラジオ局「赤・白・赤」で脚本家兼編集者として働き、放送劇も執筆した。局での仕事は同時代の文学に触れる機会となり、収入を得ながら創作に専念する基盤にもなった。初期の放送劇では暴力や抑圧の非人間性を取り上げた。戦後文学の作家たちが集う四七年グループの発表会で詩が評価され、文学活動の足場を築いた。若い戦後作家を支援したハンス・ヴァイゲルらとの交流も、文学活動を後押しした。
一九五三年、詩集『猶予の時』を刊行して詩人としてデビューし、同じ年にローマへ移った。以後、詩やエッセイ、小説、オペラ台本などを手がけ、作曲家ハンス・ヴェルナー・ヘンツェとも協働した。詩集『大熊座の呼びかけ』や放送劇『蝉』『マンハッタンの良き神』を発表し、作品は国外にも読者を広げた。一九六四年にはゲオルク・ビュヒナー賞を受けるなど、複数の文学賞を受賞した。一九六三年にはドイツ文学研究者ハラルト・パツァーからノーベル文学賞候補に推薦された。生前は『猶予の時』『大熊座の呼びかけ』の二冊の詩集で特に知られた。詩には豊かな思想性、独特の比喩や語法、音楽を思わせる響きがあると評されている。
小説や放送劇では、個人の境界や真実を確かめること、言葉そのものへの問いが重要な主題となった。後者には、ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインへの関心が大きく影響したとされる。戦後社会で女性が生きる困難や、自分の声を見いだそうとする姿も描いた。ファシズムは終戦で消えたのかという問いも作品に繰り返し現れ、過去の支配的な考え方が人間関係に残る様子を見つめた。放送劇『マンハッタンの良き神』では、愛や善が消費社会で生き続けられるのかを問うた。『蝉』も、故郷を離れた書き手の不安や、逃避が一時的なものにすぎないことを扱う作品として論じられている。小説集『三十歳』には短編『一人のワイルダームート』などを収めた。一九六一年には小説集『三十歳』、一九七二年には『ジムルターン』を刊行した。長編『マリーナ』は一九七一年に発表され、ウィーンの社交界を舞台とする三部作の第一作として構想された。
作家マックス・フリッシュとの関係からスイスにも生活の場を移し、フリッシュの小説『我が名はガンテンバイン』では主人公の一人をなした。ローマで暮らしていた一九七三年、自宅で重い火傷を負い、十日後の十月十七日に四十七歳で亡くなった。三部作の次作は完成しなかった。死後、その功績を記念してクラーゲンフルト市がインゲボルク・バッハマン賞を創設した。バッハマンは女性の細やかな思いやりと不正への断固たる反撃姿勢を併せ持つ作家とされ、没後に盛んになった女性文学の大きな指標と目されている。二十世紀のドイツ語文学を代表する書き手の一人とみなされている。
同じ年に亡くなった人物
- アーサー・ファデン (1973年没)
- ノーマ・クレイン (1973年没)
- ラニエーリ・ディ・ボルボーネ=ドゥエ・シチリエ (1973年没)
- ハロルド・ホテリング (1973年没)
- ジャン・バラケ (1973年没)
同じ地域に関係する人物
- トニー・スコット (ジャズ・ミュージシャン) (2007年没)
- ルイージ・ロンゴ (1980年没)
- フェオドール・シャリアピン・ジュニア (1992年没)
- フランチェスコ・ロージ (2015年没)
- フランコ・ロッシ (2000年没)