HISTORICAL PERSON · 1973年没

パブロ・ピカソ

スペイン生まれでフランスで制作した画家。キュビスムやシュルレアリスムに関わり、20世紀美術を代表する存在となった。

生涯
1973年没
死亡地
フランス共和国(アルプ=マリティーム県 / Mas Notre-Dame-de-Vie de Mougins)
出生地
スペイン王国(マラガ)
出典
世界地図
フランス共和国(アルプ=マリティーム県)

伝記

パブロ・ルイス・ピカソは1881年、スペイン南部マラガに生まれた。父は画家で、美術教師や美術館の学芸員も務めた。ピカソは幼くして絵の才能を示し、八歳で初めて油彩画を描くなど、父のもとで早くから美術を学んだ。1891年に家族とガリシア地方のラ・コルーニャへ移り、美術学校で学んだ後、バルセロナでも美術教育を受けた。十代で描いた古典的な作品は展覧会で評価されたが、マドリードの美術アカデミーの授業には失望し、プラド美術館でベラスケスら過去の巨匠の作品を模写した。バルセロナの芸術家たちと交流し、1900年にはパリを初めて訪れ、翌年にはパリで個展を開いた。

1901年ごろから、青を基調に孤独や貧困を抱える人々を描く「青の時代」に入った。親友の自殺に大きな衝撃を受け、盲人や娼婦、乞食など社会の周縁に生きる人々を主題とした。1904年には詩人マックス・ジャコブが名付けた〈洗濯船〉と呼ばれるモンマルトルの建物に部屋を借り、パリに腰を据えた。恋人フェルナンド・オリヴィエを得た後は、サーカス芸人や家族、子どもを明るい色調で描く「ばら色の時代」を迎えた。1907年の『アビニヨンの娘たち』では、アフリカ彫刻や古代イベリア彫刻の強い影響を受けた作品で、キュビスムの端緒となった。ジョルジュ・ブラックとともにキュビスムを切り開き、対象を多角的に捉える分析的な画面から、新聞紙や壁紙などを貼り込む総合的な手法へ展開した。総合的キュビスムでは、分析的な時期に抑えられていた色彩表現も復活した。1911年にはルーヴル美術館から『モナ・リザ』が盗まれ、容疑者の一人として逮捕されたが、一週間で釈放された。

第一次世界大戦期にはバレエ団バレエ・リュスの舞台装置や衣装も手がけ、1918年にオルガ・コクローヴァと結婚した。1920年代には新古典主義の時期を経て、1925年ごろにはシュルレアリスムに興味を持ち、1928年には彫刻に専心した。1930年には『ピカソ夫人像』がカーネギー賞を受けた。1935年には詩作を始め、翌年にはスペイン人民戦線政府の依頼でプラド美術館長に就任した。1937年、ドイツ軍によるゲルニカ爆撃を受けて大作『ゲルニカ』を制作し、戦争の惨禍を描いた。ナチス・ドイツ占領下のパリにとどまり、解放後の1944年にはフランス共産党に入党した。1951年には『朝鮮の虐殺』を、翌年には『戦争と平和』のパネルを制作した。共産党員となったが、イデオロギーにとらわれることには否定的だった。

1947年ごろからは陶芸家としての活動を始め、ベラスケスの『ラス・メニーナス』をはじめとする過去の巨匠の作品をもとに連作を描いた。1950年代以降も、絵画、版画、彫刻に旺盛に取り組み、1958年にはユネスコ本部に『イカロスの墜落』を制作した。1964年には日本とカナダで回顧展が開かれ、1966年にはパリのグラン・パレとプティ・パレで回顧展が開かれた。1967年にはシカゴで巨大彫刻『シカゴ・ピカソ』が公開された。晩年には半年ほどで三百点を超える銅版画を制作するなど、死ぬまで新たな表現を探った。生涯に残した作品は油彩と素描約一万三千五百点、版画約十万点、挿絵約三万四千点、彫刻と陶器約三百点に及ぶ。ピカソは1973年4月8日、南仏ムージャンの自宅で肺水腫により死去した。ブラックとともにキュビスムの創始者として知られ、作風がめまぐるしく変化した画家として有名である。最も多作な美術家であるとギネスブックに記されている。

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