HISTORICAL PERSON · 1973年没

ジョン・フォード

アメリカの映画監督。『駅馬車』『捜索者』などの西部劇で知られ、アカデミー賞の監督賞を史上最多の4回受賞した。

生涯
1973年没
死亡地
アメリカ合衆国(カリフォルニア州 / パームデザート)
出生地
アメリカ合衆国(ケープ・エリザベス)
出典
世界地図
アメリカ合衆国(カリフォルニア州)

伝記

ジョン・フォードは1894年、アメリカのメイン州ケープ・エリザベスに、アイルランド移民の子として生まれた。十三人兄弟の末っ子で、本名はジョン・マーティン・フィーニーだった。高校卒業後の1914年、俳優兼監督として働いていた兄フランシスを頼り、映画会社に入った。小道具係やスタントマンを経て俳優となり、兄の作品などに出演した。1917年、兄が仕事にならなくなった代わりに助監督を務めると、現場の演出を重役カール・レムリが気に入って監督に昇進し、同年に『颱風』で監督デビューを果たす。初期には低予算の西部劇を多く手がけ、ハリー・ケリー主演作を二十六本監督した。1923年からジョン・フォードの名を使い、翌年の大作『アイアン・ホース』で評価を高めた。

1927年にはベルリンで映画監督フリードリヒ・ムルナウから技法を学び、翌年の『四人の息子』にはドイツ表現主義の影響が表れた。1930年代に西部劇が衰退していくと、アイルランド独立運動に命を賭けた男たちを描く『男の敵』など、シリアスなドラマを手がけるようになった。『男の敵』で初めてアカデミー監督賞を受けた。1939年の『駅馬車』は、速い展開と乗り合わせた人々の群像劇で大ヒットし、当時は低予算映画の俳優だったジョン・ウェインを主演に起用した。以降、ウェインはフォード作品の常連となった。続いて、スタインベックの小説を映画化した『怒りの葡萄』や、ウェールズの炭鉱地帯を舞台にした『わが谷は緑なりき』を発表し、貧しくとも前向きに生きようとする家族を描いて絶賛を浴びた。フォードは西部劇や文学作品の映画化などを通じ、半世紀以上にわたり百四十本を超える作品を監督した。

第二次世界大戦にアメリカが参戦すると、フォードは海軍に志願し、戦略情報局の撮影班にも加わった。ミッドウェー海戦では爆弾の破片で負傷したが、太平洋と欧州の戦線で記録映画の制作に携わり、ノルマンディー上陸作戦でも撮影に参加した。戦時中の記録映画はアカデミー短編ドキュメンタリー賞を受けた。戦後は独立製作会社を設立し、『アパッチ砦』『黄色いリボン』『リオ・グランデの砦』の騎兵隊三部作を監督した。アイルランドを題材にした『静かなる男』でも監督賞を受け、通算四度のアカデミー監督賞という記録を残した。その後も『捜索者』『リバティ・バランスを撃った男』『シャイアン』などを発表した。

フォードの西部劇は荒野の大きな風景と、そこで生きる人々の心情を描く作風で知られ、モニュメント・バレーはお気に入りの撮影地となった。彼がよくカメラを置いた場所は「ジョン・フォード・ポイント」と呼ばれ、谷を一望する地点として知られる。先住民のナバホ族を撮影の裏方やエキストラとして雇ったことも伝えられる。ヘンリー・フォンダやウェインら同じ俳優を繰り返し起用し、撮影ではリハーサルを重ねず、一つの場面を三回以上撮らない方針を持っていた。常連の俳優や裏方は「フォード一家」と呼ばれた。西部劇に限らず戦争映画や喜劇、社会劇にも取り組み、黒澤明、宮崎駿、スティーヴン・スピルバーグら世界各地の映画人に影響を与えた。1966年の『荒野の女たち』を最後に長編映画から退き、海兵隊のルイス・プラー将軍を扱う記録映画を1970年に制作した。この作品はジョン・ウェインが語りを務め、フォードの死後に公開された。1973年、カリフォルニア州の自宅で胃がんのため死去した。

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