伝記
ブルース・リーは一九四〇年、米国巡業中の広東演劇俳優、李海泉の家族に生まれた。本名は李振藩、芸名は李小龍である。父は中国系、母は中国系と欧州系の血を引き、リーは五人きょうだいの次男だった。生後三か月余りで映画に出演し、香港へ戻ってからも子役として多くの作品に出た。一九五〇年には九歳で初主演を務め、父とも共演した。日本軍の占領期には香港の映画製作が止まったが、戦後に再開すると、子役として出演を重ねた。
一九四七年に父から太極拳を習ったが、長くは続かなかった。一九五五年、喧嘩で敗れたことを機に葉問の道場で詠春拳を学び始め、約三年間修行した。当時は中国武術界に外国人には教えない慣習があり、欧州系の血を引くリーも初めは入門を断られたが、弟子の張卓慶の取り成しで許された。一九五八年には高校のボクシング大会に出場し、三年連続優勝の他校のイギリス人を第一ラウンドで倒した。一九五九年には上海精武体育会の香港分会で四週間、北派少林拳も学んだ。学校で問題行動を繰り返す息子の将来を心配した父から渡米を命じられ、同年、十八歳でシアトルに渡った。新聞配達などをしながら高校卒業資格を取り、ワシントン大学では哲学を専攻した。シアトルに中国武術の道場「振藩國術館」を開き、中国系だけでなく日本人や黒人、白人など多様な生徒に教えた。医学生で道場の生徒だったリンダ・エメリーと結婚し、大学を中退して指導に専念した。
武術の考え方を発展させ、截拳道を創始した。「無限をもって有限とし、無法をもって法とする」という理念を掲げた。一九六六年、ロングビーチの空手大会での演武映像がテレビ関係者の目に留まり、連続ドラマ『グリーン・ホーネット』で、日系アメリカ人の助手兼運転手の役に選ばれた。派手なアクションで人気を博し、ハリウッドの俳優や制作関係者に武術を教えながら、テレビや映画に出演した。連続ドラマ『燃えよ!カンフー』を企画して自ら主演を望んだが、東洋人であることなどを理由に叶わなかった。一九七〇年には、香港のゴールデン・ハーベストと、一本一万香港ドルで二本の映画に出る契約を結んだ。
一九七一年、香港映画『ドラゴン危機一発』で成人後初の主演を務め、興行記録を塗り替える成功を収めた。続く『ドラゴン怒りの鉄拳』では武術指導も担い、『ドラゴンへの道』では製作、監督、脚本、主演を兼ねた。ゴールデン・ハーベストとの共同出資で自らコンコルド・プロダクションを設立した。さらに『死亡遊戯』の撮影を始めたが、米国の映画会社との合作『燃えよドラゴン』に取り組むため中断した。撮影では武術指導に加え、脚本や演出にも細かく意見を出した。一九七三年七月二十日、香港で共演予定の女優丁珮の自宅にいたリーは頭痛を訴え、鎮痛薬を飲んで横になった後に意識を失った。病院へ運ばれたが、三十二歳で亡くなった。公式の死因は脳浮腫とされた。死後、待望していた主演作『燃えよドラゴン』がアメリカを皮切りに世界各地で公開されてヒットしたが、地元の香港では前作『ドラゴンへの道』の興行収入を大きく下回った。香港の葬儀には数万人が参列し、シアトルでは弟子のジェームズ・コバーンやスティーブ・マックイーンらが見送った。遺体は同市に埋葬され、妻リンダとの間に生まれた息子ブランドンと娘シャンノンが残された。
同じ年に亡くなった人物
- ヴォーン・モンロー (1973年没)
- デイヴィッド・マレー (1973年没)
- ローレンス・ハーヴェイ (1973年没)
- ロジャー・デルガード (1973年没)
- イシュトヴァン・ケルテス (1973年没)
同じ地域に関係する人物
- フアン・ロドリゲス・カブリリョ (1543年没)
- シド・ヘイグ (2019年没)
- ブロッサム・ロック (1978年没)
- ジェームズ・ドハティ (2005年没)
- スティーヴ・フランケン (2012年没)