HISTORICAL PERSON · 1973年没

セルマン・ワクスマン

アメリカの生化学者・微生物学者。結核に効く初の抗生物質ストレプトマイシンなどを発見し、「抗生物質」という語も考案した。

生涯
1973年没
死亡地
アメリカ合衆国(マサチューセッツ州 / ウッズホール)
出生地
ウクライナ(ノヴァー・プルィルーカ)
出典
世界地図
アメリカ合衆国(マサチューセッツ州)

伝記

セルマン・エイブラハム・ワクスマンは、1888年7月22日に生まれ、1973年8月16日に没したアメリカ合衆国の生化学者、微生物学者である。ロシア帝国領で現在のウクライナにあたる土地に、ユダヤ人の両親のもとで生まれた。母はフラディア、父はヤコブという。オデッサの第5ギムナジウムの卒業証書を得た直後の1910年にアメリカへ移住し、1916年に帰化した。ラトガース大学に入り、1915年に農学の学士号、翌1916年に修士号を取得した。大学院ではJ・G・リップマンのもとで土壌細菌学の研究に取り組み、1915年から翌年にかけては、ワシントンの農務省でチャールズ・トムの下に数か月滞在して土壌の菌類を調べた。その後カリフォルニア大学バークレー校の研究員となり、1918年に生化学の博士号を得た。

博士号の取得後はラトガース大学に戻り、生化学・微生物学の教授として約40年にわたり研究と教育に当たった。土壌に住む生物と、その有機物の分解を調べ、放線菌の仲間から薬になる物質を見つけ出していった。彼の研究室ではアクチノマイシン、ストレプトスリシン、グリセイン、ネオマイシンなど多くの抗生物質が見つかり、その数は20を超えるとも、15を超えるともいわれる。抗生物質という語を現在の意味で用いて広めたのも彼だとされるが、この語はすでに1871年にフランスの皮膚科医によって別の意味で使われていたという。1931年には、ラトガースでの仕事と並行してウッズホール海洋研究所に海洋細菌学の部門を設け、1942年まで海洋細菌学者を務めた。

最も知られる成果は、結核に効く初めての抗生物質ストレプトマイシンである。学生時代から放線菌の研究を続けていた彼の研究室で、大学院生のアルバート・シャッツが約1万の株を調べ、予備実験で細菌を殺すものが1000株、さらに実験に回せるものが100株、最終的に抗生物質が単離できたものが10株で、その一つがストレプトマイシンだった。ところが発見者の名誉をめぐってシャッツと激しく争うことになり、1950年に訴訟となった。結果は、ワクスマンがシャッツに相当額を支払い、シャッツを共同発見者と認める形で決着した。ネオマイシンは、同じ方法で大学院生のユベール・レシュヴァリエが放線菌から分離した。1952年、ワクスマンはストレプトマイシンの発見によりノーベル生理学・医学賞を受けたが、その対象にシャッツを含めるか否かについては論争があった。

1951年、特許の収益の半分でワクスマン微生物学財団を設立し、ラトガース大学のブッシュキャンパスにワクスマン微生物学研究所を建てると表明した。その財団の初代会長は彼自身で、のちに息子のバイロンが引き継いだ。1947年のパサノ賞、1948年のアルバート・ラスカー基礎医学研究賞、1950年のレーウェンフック・メダルなども受け、400以上の学術論文と28冊の本を著した。1952年12月には、授賞式の帰途に慶應義塾大学医学部と北里柴三郎生誕百年祭の招きで来日し、この際に日本ワックスマン財団が設立された。1973年に亡くなり、マサチューセッツ州ウッズホールのクロウェル墓地に葬られた。墓石には、ヘブライ語と英語でイザヤ書45章8節の一節が刻まれている。米国科学アカデミーは1968年に彼の名を冠した微生物学賞を創設し、2005年には全米発明家殿堂に選ばれた。

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