伝記
アラン・ワッツは、1915年1月6日にイギリスのケント州チズルハーストで生まれ、1973年11月16日に没した著作家、講演者である。本名はアラン・ウィルソン・ワッツで、のちにアメリカ合衆国に移り、自らを哲学的エンターテナーと称した。中流の家庭の一人っ子で、父はタイヤ会社ミシュランのロンドン事務所の代理人、母は主婦で、その父は宣教師だったという。暮らしに余裕がなく一家は田舎に住み、少年は野の花や蝶の名を覚えた。母の宗教的な家風の影響もあってか、幼いころから精神的なものに関心を持った。中国から帰った宣教師が母に贈った風景画や刺繍に魅せられ、中国や日本の美術の澄んだ明るさ、広がりに引きつけられたと本人は書いている。熱を出した幼少期に神秘的な夢を見たことも、のちに記している。
7歳から寄宿舎生活を送り、カンタベリーの名門キングズ・スクールで学んだ。本人は当時の宗教教育を陰気で感傷的だったと振り返っている。10代の休暇には、仏教や西欧の珍しい文化に関心の深い裕福なフランシス・クロショーに連れられてフランスで過ごした。国教会のキリスト教と、図書館などで読んだ仏教のうち彼が選んだのは仏教で、ロンドン仏教ロッジに入り、1931年、16歳で書記になった。成績は優秀だったが、オックスフォード大学トリニティ・カレッジの奨学金の試験では、小論文の書き方が「うぬぼれが強く気まぐれ」と読まれて機会を逃した。学校を出てからは印刷所と銀行で働き、余暇を仏教ロッジの活動や、ミトリノヴィッチという師のもとでの学びに充てた。伝記作者を含め、彼は基本的に独学の人だと見られている。1936年、21歳でロンドン大学の世界信仰会議に出席し、論文を発表した鈴木大拙と知り合った。
最初の著書『禅の精神』(原題の訳)は、19歳で書いたとされ、刊行は1935年とも1936年ともいわれる。私生活では三度結婚し、7人の子をもうけた。アメリカに渡ると、監督教会の聖職者となり、6年間ノースウエスト大学の礼拝堂付き牧師を務めた。聖職を完全に退いた後はサンフランシスコに移り、アジア研究院アメリカン・アカデミーやエサレン協会などで活動した。最初の妻エレノアの母ルース・フラーは、晩年の佐々木指月と入籍した人物である。42歳でアカデミーから身を引き、その後は作家、講師、放送人、哲学者として生きた。
バークレーのラジオ局でボランティアの番組を担当して聴衆を得て、ビート・ジェネレーションと生まれつつあった対抗文化の若者たちに、1957年の『禅の道』を紹介した。この本は仏教をめぐる最初期のベストセラーの一つとなった。1961年の『心理療法 東と西』では、二元論を捨てれば心理療法が西洋の解放の道になりうると論じた。本人が最良の作と考えたのは1958年の『自然・男・女』である。人間の意識や幻覚剤を扱った『よろこばしき宇宙論』(1962年)、『タブーの書』(1966年)もある。著作は25冊以上にのぼる。広い知識と深い洞察、巧みな話術で、1960年代の対抗文化の中では若者たちに指導者のようにあがめられた。組織に属さず、酒を飲み、薬物で神秘体験をしたとされる。1973年、58歳で亡くなった。死後も講義はアメリカの公共ラジオで放送され続け、インターネットの普及で新たな聴衆を得た。
同じ年に亡くなった人物
- ロバート・アームストロング (俳優) (1973年没)
- デイビッド・ラック (1973年没)
- コンスタンディノス・ドヴァス (1973年没)
- ヨーゼフ・シゲティ (1973年没)
- ヴィリ・ビルゲル (1973年没)
同じ地域に関係する人物
- ベティ・ハットン (2007年没)
- ナナ・ブライアント (1955年没)
- アルレーン・フランシス (2001年没)
- ロバート・スタック (2003年没)
- チャーリー・マンガー (2023年没)