伝記
アーサー・テューダーは、1486年9月19日から20日にかけての夜、イングランド王ヘンリー7世と王妃エリザベスの第1子として生まれた。父ヘンリーはウェールズ君主家の末裔で、少年期までウェールズで育ち、そのルーツを強く意識していた。1485年のボズワースの戦いでリチャード3世を破ってテューダー朝を開き、エドワード4世の王女エリザベスと結婚して長引く薔薇戦争に終止符を打った。ヘンリー7世はウェールズの人々の期待を自覚し、テューダー家の王位の正統性を強めるため、嫡男にアーサーと名付けた。アーサー王伝説の発祥の地とされるウィンチェスターで生まれさせるべく、王妃をセント・スウィジン修道院に送って出産させたという。
ヨーク家出身の母を持つ王子の誕生は、ランカスター家とヨーク家の結合と薔薇戦争の終わりを示す「生きた象徴」とみなされ、フランスやイタリアの人文主義者たちは「ウェルギリウス的な黄金時代」の始まりを待ち望んだ。フランシス・ベーコンは、王子が1か月早く生まれたが「強く丈夫」であったと書いている。生まれながらにコーンウォール公で、数日後にウィンチェスター大聖堂で洗礼と堅信を受けた。1489年11月にバス騎士団の騎士となってウェールズ公とチェスター伯に叙せられ、翌1490年2月にウェストミンスター宮殿で叙任式が行われた。教育は1491年頃、元ウィンチェスター校の校長ジョン・リードのもとで始まり、盲目のフランス人詩人ベルナール・アンドレ、ついで医師のトマス・リナカーに引き継がれた。文法、詩、修辞学、倫理学が教えられ、とくに歴史が重んじられた。アンドレによれば、ホメロス、ウェルギリウス、オウィディウス、キケロの多くの著作などを暗記あるいは読んでいたという。
結婚の話は3歳になる前から始まり、相手は、アラゴン王フェルナンド2世とカスティーリャ女王イサベル1世の末娘カタリーナ・デ・アラゴン(キャサリン・オブ・アラゴン)であった。イングランド側が20万クラウンという破格の持参金を請求したことや国際情勢のため、婚約は何度も破綻の危機に面した。1501年10月にキャサリンがプリマスに上陸して11月12日にロンドンに到着し、11月14日に挙式した。ヘンリー7世は見世物でアーサー王伝説や聖カタリナにちなんで二人を讃える演目を披露させ、夫妻の王位継承の正統性を印象づけた。同年12月、アーサーはキャサリンを連れてウェールズのラドロー城へ移った。しかし生来病弱で、翌1502年4月2日、重い感冒による高熱のため15歳で没した。汗かき病だった可能性も指摘され、キャサリンは生き延びた。
アーサーの死の後、キャサリンは弟の第2王子ヘンリー、のちのヘンリー8世と婚約し、即位により王妃となった。しかし男児に恵まれず、ヘンリー8世が離婚を望むと、アーサーとの結婚が成立していたか否かが争点となった。1528年にキャサリン王妃は教皇特使に対し、アーサーと同衾したのは7夜だけで、処女であったと告白した。だがヘンリー8世側は結婚が成立していたと結論づけ、1533年5月23日に婚姻の無効を宣言した。アーサーの早世は、この再婚・離婚問題を通じて、イングランド国教会創設の遠因になったといわれる。
同じ年に亡くなった人物
- オリヴィエ・ド・ラ・マルシュ (1502年)
- Niccolo di Liberatore (1502年没)
- ヴィテルボのアンニウス (1502年没)
- アンドレアス・パレオロゴス (1502年没)
- Francesco Laurana (1502年)
同じ地域に関係する人物
- ヘンリー・パーシー (ホットスパー) (1403年没)
- ロバート・ダーウィン (1848年没)
- エドワード・ウェアリング (1798年没)
- アドルファス・ケンブリッジ (初代ケンブリッジ侯爵) (1927年没)
- バナスター・タールトン (1833年没)