伝記
ゲオルギー・コンスタンチーノヴィチ・ジューコフは、第二次世界大戦の独ソ戦でソ連軍の主要作戦を指揮した軍人、政治家である。1896年、モスクワ近郊のカルーガ県ストレルコフカ村に生まれた。父は靴職人、母は農業に従事し、一家は農閑期に行商もした。二歳上の姉がおり、ジューコフが五歳のときに生まれた弟アレクセイは、一年を待たずに亡くなった。三年間の初等教育を優秀な成績で終えると、母はシャツを、父は新しい靴を贈った。卒業後はモスクワで毛皮職人を営む叔父のもとに住み込み、職人修業を始めた。長時間働き、先輩から殴られることもあったが、夜学にも通った。従兄弟からドイツ語を学び、1914年に見習いを終える頃には、三人の少年を雇って働かせるまでになった。
第一次世界大戦が始まると、ジューコフは従兄弟とともに軍への志願を考えたが、徴兵年齢まで待つことになった。1915年に招集され、第5予備騎兵連隊で訓練を受け、第10騎兵師団に合流した。前線へ向かう途中で爆撃を受けたが、ドイツ人士官を捕らえた功績により聖ゲオルギー十字勲章を受けた。偵察中には地雷で乗馬を失い、負傷して入院した際にも同じ勲章を受けた。1917年の革命後、連隊内のソビエトに参加し、ボリシェヴィキを支持した。翌年に赤軍へ入り、1919年にはロシア共産党に加わった。末娘マリーヤによれば、ジューコフは正教会の信者で、戦場に出るとき兵士に「神とともにゆかん」と唱えたという。
内戦では白軍との戦闘で負傷した後、騎兵学校で将校教育を受けた。1920年には反革命軍との戦いに参加し、アレクサンドル・アントーノフの蜂起を鎮圧する作戦にも従軍した。同年、アレクサンドラ・ディエブナと出会い、結婚した。内戦終結後も軍に残り、1922年には大隊指揮官、同年7月には騎兵連隊長となった。連隊の規律と即応態勢を整えた後、1924年にレニングラードの高等騎兵学校へ進み、のちに元帥となるロコソフスキーやバグラミャンと出会った。ロコソフスキーは、ジューコフが特に熱心に学んでいたと回顧録に記している。1929年にはフルンゼ陸軍大学の高級指揮官課程に入った。1930年の卒業後、第2騎兵旅団長、第4騎兵師団長などを歴任した。1931年には騎兵総監代理に任じられて戦闘訓練の視察を担い、ジューコフの上司ブジョーンヌイは、その資質を評価しつつも、必要以上に辛辣で荒々しいとも語っている。1933年には第4騎兵師団長となった。
1930年代には騎兵と機械化部隊の共同作戦を研究した。1937年には第3騎兵軍司令官、翌年には第6コサック軍司令官となり、同年6月に白ロシア軍管区副司令官に任じられた。赤軍の大粛清で高級将校が相次いで失脚する中、ジューコフは昇進を重ねた一方、自身も粛清を恐れ、逮捕に備えていつも鞄を持っていたと、娘と妻が証言している。1939年、モンゴルへ派遣され、ノモンハン事件でソ連軍を指揮して勝利した。第二次世界大戦では最高軍司令官代理として、スターリンの最高司令部の主要メンバーとなり、ほとんどすべての重要作戦に参加した。1945年4月には自らベルリン攻撃を指揮し、ドイツ降伏後はソ連占領軍司令官として同国に駐留した。
フルシチョフ時代には国防大臣を務めた。ソ連邦元帥であり、1974年6月18日に死去した。
同じ年に亡くなった人物
- ジミー・ホーガン (1974年没)
- Karl Schochlin (1974年没)
- クルト・ハーン (1974年没)
- アルベルト・ピラート (1974年没)
- クライド・カワン (1974年没)
同じ地域に関係する人物
- ジョルジュ・コワリ (2006年没)
- グリゴリー・ペトロフスキー (政治家) (1958年没)
- ピョートル・チャーダーエフ (1856年没)
- ニコライ・シチョーロコフ (1984年没)
- タマラ・マカロワ (1997年没)