伝記
フリッツ・ツビッキーは1898年、ブルガリア公国のヴァルナに生まれた。父フリドリンはスイス人の工業家で、1908年から1933年までノルウェー領事を務めた。家族の住まいも自ら設計して建てた。母フランツィスカはチェコ系で、1927年にヴァルナで亡くなった。父は第二次大戦後にスイスへ戻った。弟ルドルフと妹レオニーがおり、ツビッキーは三人きょうだいの長男だった。六歳でスイスの祖父母のもとへ移り、商業を学ぶために送られたが、数学と物理学への関心を深めた。チューリヒの連邦工科大学で数学と実験物理学を学び、1922年に異極性結晶の理論に関する研究で博士相当の学位を得た。初期の研究はイオン結晶や電解質に関するもので、やがて天文学へと関心を広げた。1925年、ロックフェラー財団の研究フェローシップを得て米国へ渡り、カリフォルニア工科大学でロバート・ミリカンのもと研究を始めた。その後もスイス国籍を保ったまま米国を拠点に活動した。
天文学では、観測と理論の双方に取り組んだ。1933年、かみのけ座銀河団について、銀河の速度分散から必要となる質量が光度から推定される値を大きく上回ると論じ、見えない物質の存在を提案した。後に暗黒物質の仮説として知られる考えである。1934年にはウォルター・バーデとともに、星の一生の終わりに起こる大爆発を超新星と名づけ、その残骸として中性子星が生まれる可能性を示した。オッペンハイマーが中性子星を論じる重要な論文を発表したのは、二人の提案から五年後だった。超新星が宇宙線の発生源にもなるという見方も提唱した。
1935年、彼はバーデとともに山頂の天文台で使うシュミット式望遠鏡を導入した。52年間で自ら120個の超新星を発見し、ポール・ワイルドとも一つを共同発見した。自らの発見記録は2009年まで破られなかった。1942年にはカリフォルニア工科大学の天文学教授となり、ウィルソン山天文台やパロマー天文台でも研究した。1961年からは銀河と銀河団のカタログの作成を始めた。
天文学以外にも技術開発に携わった。エアロジェット・エンジニアリング社の研究責任者や顧問を1943年から1961年まで務め、ジェット推進やロケット推進に関する初期の研究を進めた。第二次大戦中にはロケット推進の研究にも関わり、1950年にはロケットエンジンの化学反応速度について論文を発表した。五十件を超える特許を持ち、その多くが推進技術に関するものだった。水中ジェット推進装置も考案した。1972年には王立天文学会のゴールドメダルを受けた。1932年にはドロシー・ゲーツと結婚し、彼女の資金は世界恐慌期のパロマー天文台建設に役立った。二人は1941年に離婚し、1947年にはアンナ・ツュルヒャーと再婚して三人の娘をもうけた。研究仲間に辛辣な言葉を浴びせることで知られ、「球形のろくでなし」を好んで使ったという逸話も残る。
ツビッキーは1974年2月8日、カリフォルニア州パサデナで心臓発作のため死去した。遺体はスイスのモリスに葬られた。スイスでは彼の形態学的分析の構想を継承する財団も設立された。小惑星と月のクレーターにその名が残るほか、パロマー天文台の突発天体サーベイ「ツビッキー・トランジェント・ファシリティ」にも名が付けられている。
同じ年に亡くなった人物
- Sayed Nosseir (1974年没)
- フランソワーズ・ロゼー (1974年没)
- レフ・オボーリン (1974年没)
- スタッフォード・レップ (1974年没)
- ホルガー・マインス (1974年没)
同じ地域に関係する人物
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- チル・ウィルス (1978年没)
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