伝記
マルセル・パニョルは1895年2月28日、フランス南東部ブーシュ=デュ=ローヌ県のオーバーニュに生まれた。父ジョゼフは同地の小学校教師、母オーギュスティーヌはお針子で、マルセルは長男である。弟のポール、妹のジェルメーヌ、弟のルネとともに育った。1897年に一家はマルセイユの学校の官舎に移り、少年時代の大半をこの港町で過ごした。1904年からは、肺の弱い母を気づかった父が休暇ごとに借りた別荘で夏を送った。マルセイユ郊外のラ・トレイユ村に近いこの家と周囲の丘は、のちに回想録『少年時代の思い出』に描かれる幸福な子ども時代の舞台となり、幼なじみの「ブロンのユリ」ことダヴィッド・マニャンもそこで友となった。わずか3歳で流暢に読めるようになって父を驚かせたという逸話も伝わる。母は脳が爆発するのを恐れ、6歳になるまで本に触れさせなかったともいわれる。
奨学金の試験に2番の成績で合格し、1905年にマルセイユの名門リセ、ティエ校に入った。学業は優秀で、1910年から詩が雑誌『マシリア』に載り始めた。ここで、のちの小説家アルベール・コーエンと友情を結んだ。同じ1910年に母が亡くなり、父は後に家政婦として雇った寡婦マドレーヌ・ジュリアンと再婚した。マルセルはこの再婚を受け入れられず、父と不仲になったという。1913年に大学入学資格を得てエクス=アン=プロヴァンスの大学で文学を学び、友人たちと文芸誌『フォルチュニオ』を創刊した。この雑誌はのちに『カイエ・デュ・シュッド』となる。第一次世界大戦では兵役に召集されたが、体質の弱さを理由に免役となった。1916年にはシモーヌ・コリーヌと結婚し、のちに英語の学士号を得て、英語教師として地方の学校に勤めた。幼なじみのダヴィッドは1918年に戦死している。
やがて教職を離れてパリに出て、劇作に打ち込んだ。1920年代半ばに『名誉を売る商人』が上演され、1929年にはパリ劇場のために『マリウス』を書き、1931年に自らの製作で映画化した。『マリウス』は『ファニー』『セザール』とともにマルセイユ3部作を成し、『トパーズ』も評判を呼んで名を高めた。1934年にはマルセイユに自分の製作会社と撮影所を設け、ライミュ、フェルナンデル、ピエール・フレネーら名優を起用して『アンジェール』『二番芽』『パン屋の女房』など数多くの映画を手がけた。1945年に女優ジャクリーヌ・ブーヴィエと結婚し、翌1946年にはアカデミー・フランセーズの会員に選ばれた。映画作家として最初の栄誉とされる。
1956年以降は映画と演劇から遠ざかり、回想録の執筆に向かった。1957年に『父の大手柄』『母のお屋敷』を出し、1962年には自作の映画『泉のマノン』を小説にした『丘の泉』を発表した。この作品は、のちにクロード・ベリが『愛と宿命の泉』として映画化し、国際的な評価を得た。回想録の後半も1990年にイヴ・ロベール監督により『プロヴァンス物語』として映画化された。1971年にはレジオンドヌール勲章グラントフィシエを受けた。1974年4月18日、パリの自宅で亡くなり、ラ・トレイユの墓地に両親らとともに葬られた。作家主義の映画監督たちは、パニョルの作家性を認めて再評価した。『ファニー』は山田洋次監督により『愛の讃歌』(1967年)に翻案されている。
同じ年に亡くなった人物
- コンスタンチン・メーリニコフ (1974年没)
- カール・ゼスタ (1974年没)
- ルイス・I・カーン (1974年没)
- Axel Cadier (1974年没)
- シルビオ・モーザー (1974年没)
同じ地域に関係する人物
- ピエール・フォシャール (1761年没)
- ジャン=ポール・ローランス (1921年没)
- ジゼル・フロイント (2000年没)
- フェルディナンド・パエール (1839年没)
- ブランシュ・ダルトワ (1302年没)