伝記
パトリック・メイナード・ステュアート・ブラケットは、1897年11月18日にロンドンのケンジントンで生まれたイギリスの実験物理学者である。父は株式仲買人のアーサー・ステュアート・ブラケット、母はキャロライン・メイナードで、妹には精神分析家として知られるマリオン・ミルナーがいる。少年期の趣味は模型飛行機と鉱石ラジオで、海軍兵学校オズボーンの入学面接では、前日に行われたチャールズ・ロールズの英仏海峡横断飛行を自作の受信機で追っていたため、そのことを長く語ることができたという。入学後はダートマスに進み、成績は「たいてい首席」だったと伝わる。
1914年に第一次世界大戦が始まると少尉候補生として実戦に出て、フォークランド諸島沖海戦やジュットランド沖海戦に参加した。戦艦バーハムでは砲術用の装置の共同発明者となり、海軍省が特許を取っている。1918年に大尉へ昇進したが、すでに海軍を去る決心をしており、科学の教科書を読み始めていた。1919年に海軍の措置でケンブリッジ大学に送られ、マグダレン・カレッジで初めて知的な会話に触れたと後に回想している。名高いキャヴェンディッシュ研究所に感銘を受け、海軍を離れて数学と物理学を学んだ。
1921年に卒業すると、ほぼ10年間キャヴェンディッシュ研究所でラザフォードのもとで実験に取り組み、1923年にはキングズ・カレッジのフェローとなった。ラザフォードの依頼で霧箱を使い、窒素に高速のアルファ粒子を当てたときの核の破壊を撮影した。1925年までに2万3000枚の写真に41万5000本の飛跡を収め、そのうち8本が二股に分かれていた。これは窒素とアルファ粒子が結びついてフッ素の原子核ができ、それが酸素の同位体と陽子に壊れたことを示し、ブラケットは意図的にある元素を別の元素に変えた最初の人物となった。1932年にはオッキアリーニと組み、宇宙線が通ったときだけ撮影する装置を考案し、宇宙線や陽電子の研究で1948年にノーベル物理学賞を受けた。
第二次世界大戦中はオペレーションズリサーチに従事し、護送船団の生還率などに貢献した。計算結果をもとに戦略爆撃に強く反対して首脳部と摩擦を生じ、疎まれたが、戦後に司令部はその正しさを認めた。1940年から翌年には、イギリスの原子爆弾計画に関わるモード委員会にも所属した。戦後は労働党を支持する社会主義者として、核兵器の保有に反対し、植民地への科学技術の提供を訴えるなど急進的な発言で知られた。1947年には地球の磁場に関する理論を発表し、検証のための磁気計の開発に年月を費やしたが、効果がないと悟った。この経験から地球物理学に関心を持ち、古地磁気学のデータから大陸移動説の証拠を探す研究に加わった。
1953年にインペリアル・カレッジ・ロンドンの物理学部の責任者となり、1963年7月に退いた。1965年に王立協会会長となり、1969年に一代貴族に叙された。1974年7月13日に死去し、タイムズ紙の訃報は「急進的なノーベル賞物理学者」と呼んだ。同大学の物理学部の建物は、その名にちなんでブラケット研究所と呼ばれている。
同じ年に亡くなった人物
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- ウラジーミル・フォック (1974年没)
- マリールイーゼ•フライサー (1974年没)
- クライヴ・ブルック (1974年没)
- ドナルド・クリスプ (1974年没)
同じ地域に関係する人物
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- ウィリアム・ゴドウィン (1836年没)
- マチート (1984年没)
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