伝記
フアン・ドミンゴ・ペロンは、1895年10月8日にブエノスアイレス郊外のロボスで生まれたアルゼンチンの軍人であり政治家である。中産階級の下の家庭に、イタリア系の父とスペイン系の母の子として生まれ、私生児だったとされる。16歳で陸軍士官学校に進み、1913年12月の卒業後は第12歩兵師団に少尉として配属された。1924年に大尉となり、1926年から1929年にかけて陸軍大学校で軍事史を修めた。1930年には陸軍学校の軍事史の教授となり、日露戦争を中心とする研究を重ねるなかで、国家の工業化と国民統合の必要を説くようになった。
1939年から1941年までイタリアで駐在武官を務め、ムッソリーニのファシズムに影響を受けたとされる。帰国後は枢軸国を支持する軍人たちと秘密結社の統一将校団を組織し、1943年5月に陸軍次官に任じられた。同年10月に国家労働局の次長となり、労働局が労働福祉庁に改組されると初代長官に就いた。労働争議に介入して労働者に有利な裁定を行い、労働法の制定や組織化にも力を注いだが、国家の方針に従わない自主的な労働組合、とりわけ共産党系の運動は厳しく弾圧された。1944年には友人が大統領に就任し、ペロンは陸軍大臣と副大統領を兼ねて実権を握った。中立国でありながら枢軸国寄りの政策をとったため、アメリカは大使の召還や経済制裁で圧力をかけたが、かえってペロンは国家主権の擁護者として人気を高め、その思想はペロニスモ、支持者はペロニスタと呼ばれるようになった。
1945年10月17日、アメリカが後押ししたとされる軍の動きで一時拘束されたが、親ペロン派の軍人や労働総同盟のゼネスト、五月広場に集まった労働者、のちに2番目の妻となる元女優エバ(エビータ)のラジオでの訴えにより、数日で釈放された。1946年2月の選挙で大統領に当選し、6月に就任すると、労働者の賃上げ、女性参政権の実現、外資系企業や鉄道の国有化、貿易の統制などを進めて、労働者層の圧倒的な支持を得た。一方で反対派は強制収容所に投獄され、独裁的な体制だとの批判も受けた。ドイツによるユダヤ人迫害には反対した一方、連合国に国際指名手配されたドイツ軍や親衛隊の戦犯を多数かくまい、治安機関の育成に当たらせたと記されている。戦時中の食肉輸出で得た外貨はすぐに使い果たされ、1949年ごろからは輸出の不振とインフレに苦しんだ。1951年末の選挙で再選されたが、1952年7月にエバが癌で亡くなると支持は後退し、離婚法の制定でカトリック教会との関係も悪化した。1955年に政権を追われ、マドリードに亡命した。
亡命後もペロニスタは国内で影響力を保ち、都市ゲリラが暗躍する不安定な情勢が続いた。亡命から18年近くが過ぎた1973年7月、ペロニスタに帰国と出馬を求められ、9月の大統領選に勝って10月に三たび大統領となり、妻イサベルを副大統領に任じた。しかし78歳のペロンに混乱を収める力は乏しく、左翼過激派の追放に動いた。1974年7月1日に心臓発作で死去し、葬儀には100万人以上が参列した。その後イサベルが世界初の女性大統領に昇格したが、1976年3月のクーデターで解任された。ペロンを母体とする正義党は、いまも同国で大きな力を持っている。
同じ年に亡くなった人物
- ウラジーミル・スミルノフ (1974年没)
- Maturino Blanchet (1974年没)
- ジョン・クーパー (陸上選手) (1974年没)
- Eduardo Santos (1974年没)
- フアン・アントニオ・イピーニャ (1974年没)
同じ地域に関係する人物
- オマール・シボリ (2005年没)
- クリスティナ・オナシス (1988年没)
- ホセ・ルイス・ブラウン (2019年没)
- フロレンティーノ・アメギノ (1911年没)
- Anibal Tarabini (1997年没)