HISTORICAL PERSON · 1974年没

ジョルジュ・ポンピドゥー

フランスの政治家。ド・ゴール政権で首相を6年余り務め、1969年の大統領選挙に当選し、第19代大統領となって「連続と開放」を掲げた。

生涯
1974年没
死亡地
フランス共和国(パリ / 4区)
出生地
フランス共和国(モンブディフ)
出典
世界地図
フランス共和国(パリ)

伝記

ジョルジュ・ポンピドゥーは、1911年7月5日にフランス中部カンタル県のモンブディフで生まれた政治家である。両親はともに教育者で、父レオンは小学校教員から後にスペイン語の教授となり、二か国語の辞書も手がけた。母マリー=ルイーズも教員だった。妹マドレーヌは古典文学の教員資格者で、1946年に文法のアグレガシオンを持つアンリ・ドメルグと結婚している。姓はオック語の地名に由来し、ポンピドゥーという場所の出身者を意味するとされる。パリの名門リセであるルイ・ル・グラン校で学び、1931年に高等師範学校に入って、1934年には文学のアグレガシオン(1級教員資格)を取得した。卒業後は、まずマルセイユで、次いでパリのリセ・アンリ4世校で教壇に立った。

第二次世界大戦中は対独レジスタンスに参加したとされる。パリ解放後の1944年にシャルル・ド・ゴールのもとで政治に関わり始め、信頼できる側近となった。1946年に国務院の調査官に任じられ、ド・ゴールが政界を離れていた時期にも協力を続けつつ、1954年には北部鉄道の取締役となり、これを縁としてロスチャイルド銀行に入り、1958年まで要職を務めた。1958年にド・ゴールが首相として復帰すると官房長官に就き、新憲法の準備にも加わった。1959年から1962年までは憲法院の委員を務めた。

1962年4月、ド・ゴール大統領から首相に任命され、1968年7月までの6年余りその職にあった。これは首相官邸での在任として最長とされる。国土整備を担う専門機関の創設、高速道路網の整備、計算機計画やコンコルドの推進などで産業の近代化を図り、国立雇用庁も設けた。1968年5月の危機では交渉にあたってグルネル協定をまとめたが、その後の総選挙でド・ゴール派が勝利すると、クーヴ・ド・ミュルヴィルに首相の座を譲り、カンタル選出の下院議員となった。

国民投票の失敗を受けて1969年にド・ゴールが辞任すると、6月の大統領選に出馬し、約58パーセントの得票で中道派の暫定大統領アラン・ポエルを破って当選した。「連続と開放」を掲げてド・ゴールの路線を継ぎつつ、いくつかの点で修正を図り、イギリスのEC加盟を支持して、1973年にその加盟が実現した。首相にはシャバン=デルマスを、のちにメスメルを任じた。最低賃金制度や環境省を設け、TGVの計画を始めるなど近代化を進めた。外交ではニクソンのアメリカとの関係を温め、ブレジネフのソ連とも緊密な関係を築き、欧州通貨のスネークの発足など欧州統合の再活性化にも取り組んだ。航空宇宙の分野でもスネクマとゼネラル・エレクトリックの共同開発を実現させるため、ニクソン大統領に直接働きかけたと伝えられ、これがCFMインターナショナルの設立につながった。

現代芸術に造詣が深く、1969年にパリの総合文化施設の構想を発案した。1973年の石油危機への対応に追われるなか、重い病を国民に伏せたまま職務を続け、1974年4月2日に在任中に死去した。任期が終わる2年前だった。その名を冠したポンピドゥー・センターは1977年に開館し、故郷にも記念の美術館がある。センターの名はメス、マラガ、ブリュッセル、上海、ソウル、メディナの分館にも広がっている。

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