HISTORICAL PERSON · 1506年没

アンドレア・マンテーニャ

ルネサンス期のイタリアの画家・版画家でパドヴァ派の代表格。マントヴァのゴンザーガ家の宮廷画家を務め、銅版のエングレービングも制作した。

生涯
1506年没
死亡地
イタリア共和国(マントヴァ県 / マントヴァ)
出生地
イタリア共和国(Isola Mantegna)
出典
世界地図
イタリア共和国(マントヴァ県)

伝記

アンドレア・マンテーニャは、イタリア・ルネサンス期の画家、版画家で、都市ごとに分類される絵画の流派のなかでは、パドヴァ派の代表格と見なされる。1431年、パドヴァ近郊のイーゾラ・ディ・カルトゥーロに生まれ、大工ビアージョの次男だったとされる。

11歳のころ、パドヴァの画家フランチェスコ・スクァルチオーネのもとで修業を始めた。スクァルチオーネの本来の職業は仕立屋だったが、古代美術への並外れた熱意を持ち、各地を旅して古代の彫像やレリーフ、壺などを集め、それを写して他の人々にも研究させた。工房は1440年ごろに設立され、137人もの画家や画学生が学んだとされ、イタリア中に名が知られた。パドヴァにはパオロ・ウッチェロやフィリッポ・リッピ、ドナテッロといったトスカーナの芸術家も集まり、マンテーニャの初期の経歴はフィレンツェの作品から受けた印象に形づくられた。師は彼にラテン語を教え、ローマ彫刻の断片を研究させたという。しかし17歳のとき、マンテーニャは工房を去った。後に、スクァルチオーネが十分な報酬を払わずに自分の仕事から利益を得ていたと語ったとされる。

最初の作品は1448年のサンタ・ソフィア教会の祭壇画だったが、現存しない。同じ年、ニッコロ・ピッツォロとともに、エレミターニ教会のオヴェターリ礼拝堂の装飾を託された画家集団に加わった。いくつもの偶然を経て、大半の仕事は彼が一人で仕上げたとされる。師のスクァルチオーネは、聖ヤコブの生涯を描いた初期の場面を、人物が石でできた男のようだから石の色に塗るべきだったと酷評した。この壁画は1944年のパドヴァ空襲でほぼ完全に失われたが、なかでも最も劇的だった『処刑場へ引かれる聖ヤコブ』は、見上げる視点の遠近法で描かれていた。1455年ごろの『サン・ゼーノ祭壇画』にも、古代建築に基づく建築構造など、同じ技法が用いられている。1452年にはパドヴァのサンタントーニオ聖堂の入口上に2人の聖人を描き、1453年にはサンタ・ジュスティーナ聖堂のための『聖ルカ祭壇画』を制作した。この作品は、現在ミラノのブレラ絵画館にある。同じ1453年、ヤーコポ・ベッリーニの娘ニコロジアと結婚し、ジェンティーレとジョヴァンニのベッリーニ兄弟は義兄弟になった。

1450年、ロドヴィコ・ゴンザーガ侯の招きでマントヴァへ移り、1460年以降はゴンザーガ家の宮廷画家として過ごした。また、1471年以降1480年ごろにかけて、ビュランで銅版を直接彫るエングレービングの銅版画も制作した。1475年ごろの『海神の闘い』のように、日本の国立西洋美術館に所蔵される作品もある。

遠近法を駆使した厳格な画面構成、ごつごつした硬質な線描、彫刻的な人体把握など、ルネサンスの画家たちのなかでも異色の作風を示した。15世紀後半には油彩がすでに普及し、義兄弟のジョヴァンニ・ベッリーニも油彩画を描いていたが、マンテーニャは伝統的な画材であるテンペラをもっぱら用いた。代表作『死せるキリスト』は、十字架から降ろされたキリストが両足の裏を観者に向けて横たわる姿を、短縮法を駆使して描いたもので、手足の釘の跡や変色した皮膚まで容赦なく描写している。彼の作品は、彫像のように硬いという批判も受けたが、古代の彫刻的な裸体表現と、意図的な彫刻的錯覚の描写とは区別されるとされる。1506年9月13日に没した。

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