伝記
チェーザレ・ボルジアは、1475年9月13日(14日とも)にローマで生まれ、1507年3月12日に没した、アラゴン系イタリア人の枢機卿にして傭兵隊長である。ヴァレンティーノ公とも呼ばれる。教皇アレクサンデル6世となるロドリーゴ・ボルジアの庶子で、母はヴァノッツァ・カタネイ。その権力闘争は、マキャヴェッリの『君主論』に大きな着想を与えた。
幼少のころから父の力添えで教会の要職を重ね、1491年にパンプローナ司教となった。父が教皇に就いた1492年にはバレンシア大司教に異例の抜擢を受け、翌1493年に枢機卿に任じられた。ピサやペルージャの大学で法律を学ぶ一方、狩猟や武芸にも精を出したという。灰色の目とオレンジ色の髪を持つ美男子と言われ、マキャヴェッリは「容姿ことのほか美しく堂々とし、武器を取れば勇猛果敢であった」と書き残している。1494年にフランス王シャルル8世がイタリアへ侵攻して教皇庁に入ると、チェーザレは教皇の特使として王との間を行き来したと伝わる。1497年6月には兄フアンがローマで殺害され、チェーザレも犯人として噂された。グイチャルディーニは、教皇がフアンを溺愛したことへの嫉妬が原因だとしている。
1498年7月、枢機卿の地位とバレンシア大司教の地位を返上すると表明し、枢機卿を辞した最初の人物となった。教皇とフランス王ルイ12世の協定により、ヴァランス公の位と領土、聖ミカエル騎士団の称号を得て、10月にフランスへ渡った。1499年5月、ナバーラ王フアン3世の妹シャルロット・ダルブレとアンボワーズ城で結婚し、フランス王家との養子縁組もして、ヴァランス公(ヴァレンティーノ公)を名乗った。シャルロットとの生活は2か月ほどで、翌年に娘ルイーザが生まれた。フランス軍とともにミラノへ入城した。
同年11月、教皇の宣戦布告を受け、フランスの援軍や各地の傭兵からなる15,000の兵を率いて、カテリーナ・スフォルツァが治めるイーモラとフォルリへ進軍した。イーモラを落とし、カテリーナは、教皇へ毒薬入りの手紙を送ったものの届かず未遂に終わったと伝わる。フォルリでは2か月の戦いののちにカテリーナを捕らえた。1500年2月にローマへ入り、謝肉祭にカエサルの凱旋式に倣った催しを行い、3月に教皇からイーモラとフォルリの統治権と教会軍総司令官の地位を授けられた。同年7月にはルクレツィアの夫アルフォンソ・ダラゴーナが何者かに襲撃され、8月に没した。ナポリ王家の一員である彼の死で、最も利益を得る立場にあったチェーザレが疑われたが、真相は不明である。以後、チェゼーナ、リミニ、ペーザロ、ファーノを次々と手に入れ、抵抗したファエンツァも1501年4月に降伏し、教皇はチェーザレをロマーニャ公に任じた。降伏の条件は当主アストールの命の保証であったが、アストールは後にローマへ送られ、1502年1月にサンタンジェロ城で暗殺された。1502年6月にはウルビーノを電撃的に包囲し、公グイドバルドはマントヴァへ落ち延びた。カメリーノも落ち、領主ジュリオ・チェーザレ・ダ・ヴァラーノと3人の息子は処刑された。7月から8月にかけて、レオナルド・ダ・ヴィンチがチェーザレのもとを訪れている。
中央イタリアに自らの国家を切り開いたが、父の死後には長く権力を保てなかった。マキャヴェッリによれば、それは先見の明の欠如ではなく、新たな教皇の選択を誤ったためであった。
同じ年に亡くなった人物
- ヨハン5世 (ザクセン=ラウエンブルク公) (1507年没)
- ジャン・モリネ (1507年)
- パオラのフランチェスコ (1507年没)
- マルティン・ベハイム (1507年没)
- ジェンティーレ・ベッリーニ (1507年没)
同じ地域に関係する人物
- Al-Mustain II (1110年没)
- エンリケ1世 (ナバラ王) (1274年没)
- フアン (バルセロナ伯) (1993年没)
- アグネス・フォン・クレーフェ (1448年没)
- サンチョ7世 (ナバラ王) (1234年没)